ニニギの命の天孫降臨像(宮崎県西臼杵郡高千穂町国見ケ丘)

天孫降臨1


此処に詔を受けたニニギ命は、天の石位を離れ、天の八重多那雲(雲海)を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて=分かれ道を何度も分岐しながら)、天の浮橋に宇岐士摩理(うきじまり=天浮橋の上から屈んで下を覗き込み)、蘇理多多斯弖(そりたたして=〈目的地が見えると〉悠然と立ち上がって)、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)に天降りましき。

高天原から兄ニギハヤヒ命は天磐船に乗って降臨したが、弟ニニギ命の場合は徒歩である。
これは高天原=九州北部に在った女王国連合=倭国の首都・邪馬台国(筑後山門)から近畿地方の河内国へ天孫降臨するには、当然船に乗って海を越えて行くことになるのだが、筑後山門から宿敵狗奴国を避けて日向国南部に到るには山超えルートを辿り、狗奴国(熊本)を迂回して、呼邑国(八女)、華奴蘇奴国(日田)、鬼国(久住)、大野国(緒方)を経由し、祖母-傾山系を越えて、日向国の高千穂に歩いて降臨することになるわけである。
実際、大分-宮崎県境の祖母・傾山系には、二上峯などの天孫降臨伝承地があり、ニニギ命は正にこのルートを通って高千穂に降臨したものと思われる。
しかしこの降臨を狗奴国にばれない様に秘密裏に成功させる為には九州山地の山道を熟知していることが必要であり、其の為にも猿田彦の道案内が必要不可欠だったのだろう。そう考えると猿田彦の正体とは、この辺りの山道に詳しい地元の山の民だったことになる。仮に猿田彦が伊勢の海の民だとしたら、九州山地の道案内には何の役にも立たないことだろう。

猿田彦命


さて、ニニギ命の天孫降臨の一行が高千穂に辿り着くと、天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫(あめのいはゆき)を取り負ひ、頭椎の大刀(かぶつちのたち) を取り佩き、天の波士弓(あめのはじゆみ)を取り持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、ニニギ命の御前に立ちて仕へ奉りき。其の天忍日命、此は大伴連等の祖。天津久米命、此は久米直等の祖なり。
実に天忍日命と天津久米命はこの時、つまりニニギ命が高千穂に着いた辺りで初めて登場するのであり、高天原からニニギ命に従っていたわけではない。即ちニニギ命は邪馬台国=筑後山門から日向国高千穂に天孫降臨する途中で、天忍日命と天津久米命を味方につけたようです。
此処で気になるのは、天忍日命は大伴連等の祖、天津久米命は久米連等の祖とされていることです。
大伴氏=大友氏は大友宗麟で有名なように豊後国に地盤を持つ豪族であり、豊後国(華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・大野国など)は倭国の構成国なので、元々ニニギ命の味方だからよいのですが、久米氏は球磨氏に繋がると云うことで、熊本=球磨国の豪族と考えて良いのでしょうか?球磨国と云えば狗奴国であり、倭国の敵国です。
元々ニニギ命が天孫降臨した理由とは、倭国が狗奴国と正面衝突したら勝てなかった経験から、神武東征時の如く、倭国軍が狗奴国の背面に回り込み、熊襲・隼人連合の
弱点である軍事力の弱い投馬国(薩摩国)を先に下して、狗奴国の背側から有利な戦いを仕掛けようと狙ったからと思われますから、最初から(狗奴国の豪族である?)久米氏が倭国軍に付いていては、天孫降臨のストーリーが成り立たないわけです。
私は久米氏とは狗奴(球磨)国の豪族・熊襲ではなく、日向隼人だと考えています。
久米は球磨から来ているのではなく、当時の倭人に多い海人族の風習であった鯨面の一種である黥(さ)ける利目(とめ)=安曇目と同じ
目=隈目(クマメ)から来ているとするのです。
神武東遷物語で、神武の皇后となる伊須気余理比売(神蹈鞴五十鈴姫)が大久米命の裂ける黥目を見て驚く場面がありますが、黥目をした久米氏が
海人族=海幸彦の日向隼人であった可能性は高いと思われます。

裂ける利目


ところで、ニニギの命の降臨した日向の高千穂の櫛布留岳について、同じ高千穂の地名のある、宮崎県北部の西臼杵郡高千穂町と南部の西諸県郡高原町に有る
霧島山高千穂峯との間で、自分とここそが天孫降臨の地だとする論争があるようです。
しかしこの争いは
無意味です。北九州の高天原=女王国連合=倭国から狗奴国を避けて南九州に天孫降臨し、投馬国=薩摩国の笠沙の岬に辿り着くには、最初に宮崎県北部の高千穂町を通り、次いで九州山脈越えに高原町の霧島山高千穂峯に至ることになります。つまり、高千穂町、高原町の双方共にニニギの命の天孫降臨の地でよいわけです。

霧島山高千穂峯の山頂に立つ天の逆鉾(一度坂本龍馬の悪戯で引き抜かれたことがある)

天の逆鉾

是に詔りたまひけらく、「此の地は韓国に向ひ、
笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此の地は甚吉き地(すごく良い地だ)。」と詔りたまひて、底津石根(そこついわね=地下深くの岩)に届くほどの宮柱布斗斯理(太い宮柱)を立て、高天の原(に届くほどの)氷椽(千木)を多迦斯理(高く立てて)坐しき(その神宮に住んだ)。 

とりあえずこの度、韓国に向かい(韓国が遠望できる韓国岳があり)、薩摩半島先端の笠沙の岬に真っ直ぐにつながるとされる、ニニギ命が宮を立てた地とは県北の高千穂町ではなく、高原町の霧島山の高千穂峰の裾野に違いありません。


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