こんな乱筆・乱文にもかかわらず目を通していただいたあなたの優しさに心から感謝します。誰にでもその人にしか果たせないこの世の使命があると思います。まだまだ未熟な私ですが、今後の新たなスタートに向けて少しだけ振り返っておきたいと思います。

 

「お前が教師になったら地球が破滅するぞ」と言った友人たちの言葉も今は懐かしい思い出です。高校1年生の時、盲腸が手遅れとなり長期入院。早朝からの朝練、夜遅くまで続く野球部の練習についていくのがやっとで、勉強も成績は常に低空飛行。やっとの思いで退院してもそっけない担任の態度に気持ちが切れてしまい、野球は続けたもののその後は全く勉強をしませんでした。野球の合間をぬってすっかり遊びほうけて高校時代を終えました。野球部を引退してからは、退廃した生活を繰り返した高校時代が終わりました。そんな自分を誰もがダメ人間と思っていたはずです。

野球以外は全く勉強をしなかった高校時代、学年最下位で卒業し、関東エリアで1年のアルバイト生活の後、淡く抱いていた体育の教師目指してはじめて勉強に挑戦しました。少しずつ勉強が面白くなってきて体育以外の教員にもなれるかもしれないと思い、法学部合格を目指して猛勉強しました。高校時代は野球をやり通したものの、全く勉強をしなかった自分にとって、受験勉強は苦しいものでしたが、それ以上に充実感にあふれるものでした。1年の浪人をへて翌年大学に入学しました。大学時代は教育者への道が自分の生きる道と確信し、教員になるために猛勉強しました。念願の社会科の教員免許をとり、1年の留年の後、卒業して赴任したのがオホーツク海側の職業高校、期限付きからのスタートでした。

1993年大学を卒業。帰郷してすぐに地元にある教育庁に履歴書をもってノーアポでこちらから一方的に押しかけました。直接教育長さんに会って「私を41日から教員として採用してください。私は教師になるために帰ってきました。何が何でも4月から教壇に立ちたいのです!」と真剣に訴えました。すると「何か得意なことはありますか?」と聞いてくださったので、私はすかさず「野球部を持たせてくれたならば必ず甲子園に連れて行ってみせます!」と言ってのけました。教育長さんの満足そうな顔で面接が終了しました。自分でも大きな手ごたえを感じて家路につきました。そして2日後に、期限付き採用のお話をいただいたのです。

地元のコンクリート屋さんでアルバイトをしていたのですが、すぐに辞めてはりきって学校へ行きました。採用してくれた学校側もあらかじめ教育長さんから話を聞いていたのでしょう。「野球の専門家のすごい人が来る」との前評判が伝わっていたようで、大きな誤解の中で教員生活が始まりました。自分で言ってしまった事は後にはひけません。若さと情熱で全てに思いっきりぶつかりました。3年の副担任、生徒会所属、政治経済、現代社会の教科担任、野球部の部長としてスタートをきりました。野球部では、ランニングから、準備体操、ダッシュ、キャッチボールも生徒たちと一緒にというよりも、生徒たち以上に先頭になって取り組みました。他の生徒たちからは「先生が一番はりきっているね~」と冷やかされながらも、体力の限界まで毎日、野球の練習に明け暮れていきました。バッティングピッチャーも肩が壊れてもかまわないという強い思いでのぞんでいました。