こんにちは、makoiです。
お久しぶりです。
今回ご紹介するのは、鎌倉、葛原岡神社です。
今日で命が尽き果てるとなったとき、
『この世に思い残すこと無し!』
と、思えるような人生を送れている人って、いったいどれくらいいるんだろう、と考えてしまいます。
葛原岡神社にゆかりのあるこの方は、この世に思い残す気持ちを、辞世の句として残しています。
『秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん』
「うらみ」という言葉で強烈な印象を与えるこの句を残したのは日野俊基(ひのとしもと)卿。
天皇に仕える、京の都の朝廷に貴族として列せられる方でした。
時は1332年、今からおよそ700年前。
武家中心の鎌倉幕府が出来上がって、約140年が経過していました。
すでに長期政権となっていた、鎌倉幕府の北条一族への、いつ果てるともしれない権力の集中は、世の中に様々なひずみ、矛盾を作り出していたと考えられます。
そして、目に見えない市中の不満のエネルギーが、ゆっくりとはいえ、着実に充満しつつあったと思います。
そんな時代背景があったにせよ、武力とはかけ離れた、いわゆる京都のお公家さんが、巨大な権力と軍事力の保持者である鎌倉幕府打倒を目指したのです。
日野俊基卿自らを突き動かすそのエネルギーの源泉は、いったい何だったのか。
日野俊基卿は、長きにわたる武家中心の鎌倉幕府から、京都の天皇を中心とした朝廷に、実権を取り戻したいと考えていた、と言われています。
それは、確かにそうかもしれません。
しかし、バイタリティがあるとはいえ、軍事力を持たない公家の一人に過ぎない人が、世の中を良くしたい、あるいは、上司である天皇のために、などというような一面的な理由だけで、巨大な軍事力を持つ、百年以上も支配者として君臨していた鎌倉幕府を「倒そう!」と思えたのでしょうか?
ただの無知で無謀なだけの人だったのか?
いや、決して、そうではなかった、と想像しています。
京都には、鎌倉幕府の出先機関であって、警察の役割を持つ六波羅探題(ろくはらたんだい)がありました。
計略が漏れたり、不穏な動きを見咎められたら、すぐに捕縛され囚われの身になって、その命は保証されない、危険な状況であったはずです。
まさしく、命懸けであった、と思うのです。
なぜ?
何がそこまで、日野俊基卿を駆り立てたのか?
長きにわたり、権力の座についていた鎌倉幕府。多少のゆるみ、腐敗政治があったにせよ、巨大な権力と軍事力を持つ政権を倒すには、さらにそれを上回る巨大な軍事力が必要だったと思います。
鎌倉幕府を倒すに足る勢力を動かすことができる力が、日野俊基卿にはあったということなのでしょうか。
そして、処刑される直前に詠んだとされる辞世の句。
もし、無謀な計略で、箸にも棒にもかからないような経過をたどっていたとしたら、ここまで激しく、この世に未練を残していたでしょうか。
もしかしたら、
日野俊基卿の計略は、あと一歩で完成だったのではないか。
だから、はかりごとが破れたときの怨念が、激しい言葉として残されたのではと思うのです。
彼は、天皇の忠臣として、天皇の威光を借りながらも、反幕府勢力を束ね、行く行くは、自らが将軍になりたかったのではないか、と思うのです。
そして、その地位をすでに、ほぼ手中に納めていた。と同時に、鎌倉幕府を倒すことができそうな、数多(あまた)の武将を束ねられるだけの人格者だった、とも思えるのです。
鎌倉幕府を倒すに足る、足利尊氏、新田義貞、楠木正成ら、太平記の花形として登場する人物達の軍事同盟を束ねることに、ほぼ成功していたのかもしれません。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)のもとで、反鎌倉幕府勢力の頂点に君臨する野望を持っていた。
しかし、届かなかった。もう一歩のところで。
日野俊基卿は、鎌倉幕府に捕らえられてしまい、1332年、6月3日、鎌倉の葛原岡の地にて、無念の最期を迎えます。
そして、そのわずか一年後に、日野俊基卿の悲願だった鎌倉幕府は滅亡します。
葛原岡神社の境内には、日野俊基卿終焉の地、すなわち、処刑された場所が残されています。
辞世の句にあるような強い思いを残した場所。
葛原岡神社が、鎌倉を代表するパワースポットというのも頷けますね。
ブログの更新、実は、葛原岡神社のこの記事を書いた際に、ネットワークの不具合で、2度もアップしようとした記事が消えてしまいました。
そんな経験は、はじめてでした。
3度目の正直、内容は1回目に書いたものとは、ガラリと変更しています。
【葛原岡神社】
神奈川県鎌倉市梶原5-9-1
鎌倉駅西口 徒歩35分
