令和6年6月15日
仙台キリストの教会礼拝説教

わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである

細井 実

 

6月も中旬となりました。気候変動による過去に例を見ない天候が続いているように思います。その原因が私たち人間の営みが生み出す温室効果ガスであることは自明なのに、有効な対策に取り組むことが出来ず、時間ばかりが過ぎて行きます。多分戦場での爆発や火災は、小手先の対策を無効にするほど温室効果ガスを発生させていることでしょう。私たちはただ破滅への道を進んでいるのでしょうか。気候変動は、草花の開花や木々の芽吹を早め、
動物たちも、人間がそうであるように、早すぎる初夏に対応していくことが難しくなっているようにも思います。

 この星と私たち人間の未来に、明るい兆しを見ることはできないのかもしれません。
いやこの星と言ってしまうことは、この星とそれを生み出した神への冒涜でしょう。この星の一生にとっては、人間の営みなどは記憶にとどめることが難しいほど一瞬の出来事なのです。人間ではなく、植物を含む生物としてはかろうじて記憶にとどまるかもしれませんが。地球は生まれてから約46億年。生命の誕生は38億年前。地上に植物や節足動物、両生類が生息するようになるのが4億5千万年前。人類の誕生はおよそ200万年前。私たちの祖先であるホモ・サピエンスの誕生は長くて40万年前。
未来の予測は難しい思いますが、70億年から80億年後には太陽が赤色巨星となり、地球はそれに吸収されると言われています。人類が何時滅びるのかについては多様な意見がありいわゆる定説はないようです。しかし、多分、これから何億年も生存することは不可能でしょう。もし核戦争が起これば明日にでも、人類は滅亡の日を迎えることになるのです。無論SF小説などにあるように生き延びた少数の人々が新しい社会を形成するかもしれませんが。
 神は何故この宇宙を創造し、そして人間を創造したのか。
 地球はただ与えられた寿命を、神の与えた摂理に従ってただ在るがまま存在することによって全うしていくでしょう。多分私たちには想像もできませんが、この広大な宇宙も、その内部では多くの星々や銀河の生成と滅亡を無限に繰り返しながら、やはり神の摂理に従って存在し続けるでしょう。最新の観測ではその宇宙さえも138憶年前に誕生したと言われています。はじまりがあるのならば終わりもあるのかもしれません。一節では数兆年後には宇宙のガスが枯渇し、数百京年後にはすべての銀河が蒸発し、更に10の100乗年には光を残して消えていくということです。
 (更に、この宇宙の外側には別の宇宙が存在し、無数の宇宙があわのように生まれ、消滅しているのだという仮説もあり、もしそうであるとすれば、この宇宙の無限に近いような存在さえあわのようにはかなく、相対化され、何時までも、何処までも、本当の無限に向かって、この世界は、世界という言葉さえ、無意味になる時間と空間に向かって、ただ存在し続けるのだということになります。)
無論このような仮設は、今存在する人間の知性が生み出したものにすぎません。このような仮設が神の意思とどのような関係あるのか。それも不明です。
 ただ、地球も、宇宙も、一つの存在として生まれ、一生の時間の長さは比べることができないくらい違うけれど、いつかは滅亡するのです。
 宇宙や地球と人間を比べることはさらに愚かなことと言えるでしょう。人間のはかなさは比べることさえ拒まれているように思えます。
 ただ私たちは、私たち自身も、そして人類も、そして光と闇の源である地球や宇宙も、すべてが神によって創造されたものであるということを知っています。比べることはできないけれど、それゆえに、私たち人間の一生とこの星と宇宙の一生も、等しく神の前に存在しているものの一生なのです。そう断言できるかわかりませんが、違うところがあるとすれば、この星や宇宙はその中でどのような事象が起きていようと関係なく、ただ悠久の時間を神に従って滅びに向かうのに対して、人間は意思や知性を神に与えられているということです。
 そこで思うのです。 
人間は、この星や宇宙に比べればあまりにはかなく、虚しく、その一生は、一瞬とさえ言えない間の事象であるということ。しかし、人間は、この星の上で生まれ、一瞬とさえ言えない短い間ではあるけれど宇宙の悠久の歴史にその一生を刻んでいるということ。そして、人間は、その一生の間に、神から与えれた意識や知性をもって、自分とは何か、なぜ存在するの、更にはこの世界とは何か、なぜ存在するのかについて考え、思うことができること。
 それが、人間がなぜ存在するのかということの意味なのではないか。
地球や宇宙は、意識や知性を持つことはありません。今この星に存在する無数の物や事は、人間を除いて、意識や知性を持つことはありません。宇宙という存在も、この星も、人間が存在しなければ この大地や海が地球であり、この星空が宇宙であるということは誰にも知られず、語られることもなく時間の流れの中に存在するだけなのです。人間が知ろうと思い、考えようとしたからこそ、地球や宇宙は、私たちと共に存在しているのです。
同じことが神に対しても言えるように思うのです。
神は、自らがこの世界の根源であり、この世界を作り出したのだということ、そのことを知らせ、語らせるために人間を創造したのではないか。人間が神を信じ、神について語らなければ、神は沈黙したまま、ただ存在したのでは無いかということです。いつか人類が滅亡してしまえば、神を知り、語るのものは存在しなくなり、沈黙の地球、沈黙の宇宙がただあり、神もただ有るというときが訪れるのかもしれません。神は人間の仮設が正しければ、宇宙の創造から138億年は、自分を知る者、語る者がいない時間を過ごしてきたのです。その沈黙が再び、10の100乗年続くのではないか。
 ではなぜこの数千年だけ、神は人間を創造し、人間はその神を知り、語ってきたのか。
その答えを私は持っていません。
でもこう考えることはできるのではないか。
それは宇宙の中において、この星が生まれ、生物が誕生する環境が生まれ、意識や知性を持つことができる人間が生まれ、そして神について語ることのできるイエスが生まれ、イエスを信じることで人間が神を知ることのできる、この今という時間を神は待っていたのだと。
 待っていたという受け身の表現だけで語ることは、神に対して不遜であり、不適切かもしれません。今この時、進化論と創造論の対立を超えて言うならば、神は、神を知り、神を語ることのできる存在である人間の誕生するまで、生物の進化の果てに至ったこの時を待っていたのだと。でも同時に、神は、この時の来ることを知り、そして選び、この時にふさわしい者として人間を創造したのだと。そして、今私たちは、そのような、神を知り、神を語る使命をもって、この時に存在しているのだといるのではないか。
ここでさらに思うのです。
 私たち人間が、苦しみや悲しみの出会い、絶望とさえいる中で、星空に向かって、あるいは森や海にむかって手を合わるのは何故かと。それは、悠久の地球や宇宙の営みに比べれば、どのような苦しみや悲しみも、相対化され、癒されるからではないかと。
また、同時に、その手を合わせる時に知らずと神を思い、神に祈っているのは何故かと。それは、星や自然、宇宙や地球の彼方にそれらを超えた存在を感じ、その存在に畏怖を抱くからではないか。さらにその畏怖が、創造主としての神へと、人間を導くからではないか。そして神によって癒され、人間の思いが和らげられるからではないかと。
私たちは何故今ここにいて苦しみ、悲しむのか、それは意識と知性を神によって与えられた人間の宿命です。でも同時にその意識と知性は、人間にこの星と宇宙と知らしめ、そしてすべての源である神を求めさせることを可能としているのです。
 ならば苦しみや悲しみは、神を求めるために、祈ることを知るためにあるのかもしれないと思うのです。

聖書をお読みします。

マルコによる福音書3章 31節から35節
さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。
すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

イエスの家族が群衆の中で座っているイエスを、人をやって呼び戻そうとしている場面です。イエスは多くの奇跡を行い、12弟子を選んでこれからの宣教を共にしようとしたところでした。多くの人々がイエスを慕い、傍に来て、その言葉を聞き、奇跡による癒しを得ようとしていたのです。その時その群衆の外に家族が来たのです。なぜ来たのか。

マルコによる福音書3章 21節、22節
身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。
また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

律法学者は、イエスをベルゼブルに取りつかれた悪魔のかしらだと言い、奇跡と言われている癒しの数々は、かしらがその力で子分である悪魔を追い出したに過ぎないのだと言っているのです。イエスの家族もこのような律法学者が流布する考えを信じて、イエスを悪魔から救うために取り押さえようとして群衆に近づいてきたのです。
同じマルコによる福音書の第6章の3節と4節には イエスが故郷であるナザレに戻り、神のことを伝えようとしますが、受け入れてもらうことが難しかったことが記されています。

マルコによる福音書6章 3節から5節
この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。

イエスを幼少のころから知り、大工として生活している姿しか見ていないナザレの人びとにとっては、数々の奇跡を行い、多くの民衆から救いを求められ、それに応えている、イエスが自分の知っているイエスと同じであることが信じられなかったのです。
ましてやイエスは 今もナザレで暮らしているマリアを母とするヤコブ等の兄弟の一人であって、その兄弟とどこが違うのか。同じだとするならば、イエスの言葉や行動について流布されてることをにわかには信じられないというわけです。
また家族にとっても、家族の一人として暮らしてきたイエスが、家を出たあと、急に神のことを語り奇跡を行うようになった聞かされても、やはり信じることはできなかったでしょう。
故郷では、イエスは、ごく少数の人しか癒すことができなかったというのです。
このような、イエスも認める状況があるとすれば、故郷で生活しているイエスの残された家族が、律法学者たちが言う、「彼はベルゼブルにとりつかれている」という言葉を信じてしまい、「気が狂った」と思っても致し方なかったと言えるでしょう。
そのような思いにとらわれ、イエスのことを心配し、悪魔から救わなければならないと考えて、イエスの母と兄弟たちは、イエスを囲む群衆の「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」のです。
何をどのように話して、イエスを説きふせようとしたのか。多分簡単ではないことは解っていたのでしょう、また群衆の中に分け入って、説得しようとしたり、無理やり連れ出そうとしても、かえって、群衆の反感をかい、イエス自身も自分に救いを求めている群衆からは離れようとはしないということが、外に立っただけで家族にはわかったのだと思います。だから人をやって、まず穏便に呼び出し、話をしようとしたのでしょう。
しかし、イエスは、家族が訪ねてきていることを知らされると、そのことに従おうとするどころか、かえって家族を拒むようなことを群衆に向かって言うのです。
穏便に呼び出そうとした家族にとっては、唖然とするような信じられないような、悲しい言葉であったかもしれません。この後イエスは家族と会うこともなく、4章にあるように、次の船上での説教をするために宣教の旅を続けるのです。
私たちは、母の胎から生まれ、母から乳をいただき、家族の中で育ち、家族をよりどころとして成長していきます。イエスも、神の子でありながらも人の子としてマリアの胎より出て、その家族の一人として育てられたのです。
マリアからすれば、その受胎の奇跡を知りながらも、自分の子として育てた以上、家族を頼りにして、家族のことを心配しながら生きていってほしいと願ったのでしょう。仮に神の子として人々を救わなければならない定めがあったとしても、自分たち家族を見捨てることなくその使命を果たして欲しいと思っていたことでしょう。
しかしイエスは故郷を発った後、十字架で犠牲となるまでマリアの下に帰ることはありませんでした。なぜイエスは、家族を捨てるようなことをしたのか。仮に宣教の旅に出るとしても、まず、はじめに家族の理解を得てから旅立たなかったのか。それは、イエスは神から召されたからです。その瞬間は次のようものでした。

マルコによる福音書1章9節から11節
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

イエスは、ヨハネからの洗礼を受けた後、神に召され、神を伝える使命を与えられたのです。その呼び出しは、故郷の家族への思いや、イエスが今まで生きてきたうえでのさまざまな関係を断ち切るものでした。
神の命に応えるためには、もう家族の下に帰ることはできません。その時から宣教は始まるからです。その時から、故郷や家族の暖かい思いやりや優しさ甘えることは許されず、また甘えようとする気持ち自体を絶たなければならなかったのです。

マタイによる福音書8章 20節
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。

イエスの神に召されてからの宣教の旅には、心を休めてくつろぐような場所は無いのです。
イエスが群衆に囲まれている中で、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言われたときどのように思ったのか。
決して家族を嫌ったり、憎んだりして拒んだわけでは無いでしょう。マリアが自分を生み、兄弟たちと共に育てたことについて、十分に理解し、家族を慕い、家族の下に帰りたいという思いがあったかもしれません。人の子である以上人としての自然な感情はあったのだと思うのです。
しかし、イエスは神に愛されている神の子でもあったのです。
神に呼ばれた時から、人の子として肉体を持ち、人としての感情を持ちながらも、神のことを語り、どのような人々も神の下で等しい存在として、神を知ることができるように導く神の子としての使命を生きていかなければならなくなったのです。
イエスは人の子としての自分を抑え、自分を隠し、家族への思いを断ったのです。それは苦しい選択だったのだと思うのです。

イエスは言います。
「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。
そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

イエスの使命は、自分への距離の短さや縁の濃さ等で人を図るのではなく、誰でも、等しく周りにいる人、すべての人を、自分の兄弟であり姉妹であり母とすることなのです。
家族や故郷への特別は感情があるのは人間として、ごく当たり前のことでしょう。でもイエスは神の子としてその人間としての思いを捨て、この決断を伝えるのです。
今私の周りにいる、この群衆、その一人ひとりが、本当の家族、神の下での家族、兄弟、姉妹、母だというのです。それはイエスが、その宣教の旅で出会った、また出会う人々への変わらぬ思いであると言えるでしょう。家族であるということは、お互いをいたわり、慈しみ、支え合うという家族の間の愛情を、すべての群衆に対してイエスが抱いているということです。同時に家族と思われた群衆に向けては、一人ひとりがお互いに家族の間にあるのと同じ愛情を抱き合わなければならないのだということを求め、命じているのだと思います。
私はここに、イエスの決断、神がイエスの課した使命の本質のようなことを感じているのです。それは、「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」ということです。
人間は、神から意識と知性を与えられ、考えること、思うこと、知ること等が、できるようになりました。神はそれを、この人間という生き物が、お互いに助け合い、支え合いながら秩序ある社会をつくり、そしてこの世界について思いを巡らせ、神のことに気づき、信じ、平安に生きでいけることができるようにするために与えたはずでした。しかし、現在の世界の情勢を見れば明らかなように、人間の社会はそうなりませんでした。残酷にも現在の私たちはその真逆の世界に生きているのです。
この、神の意志とは真逆の世界をどのようにして克服することができるのか、どのようにして、差別や偏見のない平等な社会を築けるのか、憎しみや争いや諍いの無い世界になしえるのか、平和で安心してお互いに助け合いながら暮らせる世の中にできるのか。その方法を、世界中の人々が求めているのに違いないのに、なぜ見つからないのか。
なぜという言葉だけが繰り返され、出口の見つからない迷路の中で、人間は立ちすくんでいるのです。
でも、でも、イエスはその答えを、ここで群衆に語っているのです。
現実を知る現在を生きている人々からは、、そんなことは解っているけれど、どうしようもないのだという、冷めた、あきらめた答えが返ってくるでしょう。でも冷めたままでは、あきらめたままでは、また堂々巡りの迷路の中に立たされてしまうのです。
答えはこれしかないのです。
それは全ての人々は、どのような境遇であれ、どのような違いがあっても、今ここにいるだけで、同時に存在するだけで皆が兄弟であり姉妹であり、母であり、父であり(イエスは父について語っていませんが、群衆の外に立った頃には、家族に父はいなかったようです。)、家族であること。そして家族のように支え合い、お互いに助け合って生きていくこと。そして自分や世界について考え、創造主である神に導かれ、平安な世界をめざしたいくこと。
なぜ人間は創造され、存在しているのか。
人間が争いから逃れることが出来ずに滅びようと、この星にとっては些細な出来事でしょう。またこの星やこの銀河が、寿命がつきて滅びようと宇宙にとっては些細なことでしょう。
でも、その些細な出来事に中に、私たちは、先に述べたように、ただ唯一、意識と知性を持つ存在として生かされているのです。
人間は、その意識と知性の力で、人間が存在するこの時、この今とは何かを考え、人間が存在するこの場所、こことは何かを考え、その今とここは何故存在するのか考え、そのすべての根源、存在する理由として神について考えることが、それができる存在として、神によって創造されたのです。、私たちはその創造の使命に答え、この世界のすべての事象について考え続けなければならないのです。人間の争いもその事象に一つです、その事象がなぜあるのか、どうすれば克服できるのかについても、意識と知性によって考え続けなければならないのです。
そうであるとするならば、私たちは、この人間社会の無残で残酷な現実を救う道について、神から与えられた意識と知性によって、考え続け、考え続けなければなりません。
そして、こう思うのです。
その考え続ける、救いへの道筋は、どのような人間もその一人ひとりが、イエスによって「わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」といわれていること、このことを考え、このことを実践し、生きていくことによって、切り開かれていくのだと。
誰でもが知っている平凡な道だともいえるでしょう。でも誰も実現できていない困難な道なのです。
その困難な道を選び、その道を歩まなければならないのです。