





【東北の熊野信仰の受容と背景】
東北地方には、全国に3,135社ある熊野ゆかりの神社のうち、全体の4分の1に及ぶ736社の熊野神社があるとされています。
熊野信仰が都だけでなく全国に広がる中、遠隔地である東北地方に関するものとしては、「熊野年代記」に渡海と呼ばれる捨身行に延喜19年(919年)に 陸奥国の13人が同行したことが書かれており、また、名取の熊野三社勧請に深く関わった陸奥国に住む老女に関する和歌が、平安時代末期頃に成立した「袋草 子」に収められています。 このように、東北地方の熊野信仰は、平安時代末期(12世紀)頃から本格的に受容されたとされ、熊野神社が各地に勧請(かんじょう)されていったと考えら れています。
中世になると、はるばる紀州熊野三山を詣でた東北地方の人々の記録や、熊野信仰の布教などに関わった宗教者たちの記録が多くなり、活発に活動していたことが知られています。
現在、東北地方に熊野信仰に関わる文化財が数多く伝わっていることから、いたるところで熊野信仰が根付き、人々の暮らしに溶け込みながら今でも尊崇を集め続けていることが伺えます。
【名取熊野三山の勧進と布教】
紀州(和歌山県)熊野の地は、古くから自然信仰の聖地・霊地として人々尊崇の対象で特別な地域とされてきました。
熊野三山の内、最も古いとされる本宮大社は家津御子神(キツミコノカミ)、新宮大社は熊野川の下流にあり速玉神(ハヤタマノカミ)、那智大社は飛龍権現ともいわれ、那智の大滝を御神体とし古くから行者の修行の場であったが、後に夫須美神(ムスビノカミ)(生産神)を祀っています。 三山信仰が盛んになり、特に平安末期頃仏教と神道の神仏習合に浄土信仰が結びついて発展し(熊野の場合は、本宮社の神=阿弥陀、新宮社の神=薬師、那智社の神=千手観音と同一:熊野は三尊が集まる浄土)、熊野三山には熊野三所制度が確立し、熊野山伏や先達によって熊野信仰が広がっていきました。
東北地方における名取熊野三社については、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模して、本宮、新宮、那智の三社が他の地域と異なり別々に勧請されています。名取熊野本宮社は家津御子神、新宮社は速玉神、那智神社は夫須美神を主神として社も別々に建てられ、縮小版的で、まさに、紀州熊野三山の世界を再現するかのような勧請のされ方は、名取熊野三社は東北太平洋沿いにおける熊野信仰布教の一大拠点としてふさわしい姿であったと考えられます。
名取熊野神社の縁起によれば、保安年間(1120~1124)に名取老女によって勧請されたと伝えられていますが、文献記録などから既に平安時代の終わり頃には熊野三社は存在していたと考えられています。「吾妻鏡」文治5年 (1189年)からは、名取熊野の金剛別当秀綱は奥州藤原泰衡の後見人として強大に勢力を誇っていたことが知られ、このことから、名取熊野別当は東北では軍事的に武士団の棟梁で、宗教的には熊野権現の名において修験教団の管長であったことがわかります。


紙芝居
「名取老女ものがたり」
makochanは、個人的に、この名取の熊野三社には子どもの頃から親によく連れて行ってもらっていて、親しみのある神社でした。宮城県には他にも塩竈神社や大崎八幡宮、竹駒神社などの有名な神社がありますが、私は名取熊野三社がなぜか居心地が良く大好きでした。特に熊野那智神社が好きで、連れて行ってほしい‼︎とよく親にねだっていました。また、私の名前の一文字は、紀伊半島に由来しています。
だから、私は、紀伊の熊野三社と名取の熊野三社にすごく縁を感じているのです
いつか、紀伊の熊野三社をお参りしたいです。いや、「いつか」じゃなくて、今年、行っちゃおうかな
ものすごくDEEPな会でした。。。
最近、「埋もれてきた東北の復活」を感じるのは私だけ⁉︎
出るよ‼︎
東北が、いよいよ表に出るよ‼︎
そんな予感がします
そして、なんと、イベント終了後に、熊野神社(旧 熊野神宮社)の氏子さんが、普段は見られない本殿を特別に案内してくださったのです
えー⁉︎
すごーい‼︎
子どもの頃からこの神社に来てるけど、本殿を見られるなんて初めてです
長くなったので、
続く