博多の旅(その9)博多旧市街~網敷天満宮 | 大根役者

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日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

櫛田神社前の博多通りを西へ進んだ。

ヤノベケンジのSHIP'S CATに出会った。

博多座は1999年に誕生した演劇専用劇場だ。歌舞伎、オペラ、ミュージック等、あらゆる演劇の演出に対応できる劇場だ。

広島にもほしい。

網敷天満宮に参拝した。

幕末から明治にかけ、探検家、浮世絵師、著述家、好古家として、著名で、蝦夷地探索後、北加伊道(北海道)という名を考案したことでも知られる松浦武四郎が、京都から大宰府までの天満宮から25社を選び「聖蹟二十五拝順拝双六」を作ったことから始まる「菅公聖跡二十五拝」の一社である。

 

明治に入り松浦武四郎が25社を選び、「聖蹟二十五拝順拝双六」を作ったことから始まる。

菅原道真大宰権帥に左遷されて赴任の途中、袖の港に上陸した時、住民達が綱で敷物を作り出迎えたと言われている。その後、その場所に社殿が建ち綱輪(つなわ)天神と呼ばれた。現在、社名は綱敷天満宮となり、社殿所在地の町名は綱場(つなば)となった。

菅原道真が大宰権帥に左遷されて赴任の途中,袖の港に上陸した時,住民達が綱で敷物を作り出迎えたと言われている。その後、その場所に社殿が建ち綱輪天神と呼ばれた。社名は綱敷天満宮となり、社殿所在地の町名は綱場となった。綱場の地名は、戦国期の日明貿易資料に「綱庭」と見え、綱は宋(960~1279)の時代に「船団」を意味することから、貿易や船に由来する地名と考えられている。元禄の頃、国学者松下見林(1673~1703)が綱敷の神影(菅公画像)を寄進したことがあると伝えられているが、現存しない。

 

近くに、楊ヶ池神社跡という石碑があった。由緒によると、このあたりは袖の湊の入り江でその跡が池として残り、岸に楊の大木があったので、「楊池(やなんが池)」と呼ばれていた。その柳を神木として少彦名命を祀る小さな祠があったが、年月を経て荒廃。宝暦6年(1756)神託により医師安井圓庵が再建、「楊池神社」としてこれを崇めた。恵比須、大黒、稲荷をお祀りしていたと書かれている。

このあたりまで、海が広がっていたのだろう。博多は海上交通の要衝であったことが、確認できる。

 

 

 

 

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