松江大橋を南に渡る。
慶長12年(607)、毛利に代わって堀尾吉晴が藩主として出雲国24万石に加増移封された。当初、月山富田城を本拠とした堀尾吉春は、松江に本拠を定めることを幕府に申し出て、慶長16年(1611)完成し、本拠を移した。堀尾吉春は、本拠地移転後、間もなく死亡することになる。
松江は、大半が、低湿地で占められていたため、山を切り崩した土で埋め立て城下町を造成することになった。
慶長12年(1607)、末次城のあった亀田山に松江城を建設するにあたって資材運搬のため、それまでの簡素な竹の橋を本格的な橋に架け替えることした。しかし、先述したように軟弱地盤であったため、杭打ち工事が、進まず、工事は、困難を極めていた。柱を支える堅固な地盤に杭が届かず、巨石により、柱を支えようとしても、失敗を繰り返すだけだった。
人柱伝説が残っている。
小泉八雲は、「神々の国の首都」の中でこんなふうに記している。
『この人柱に立った男は、雑賀町に住む、源助というものであった。なぜこの男が人柱に立ったのかというと、昔から、まちのついていない袴をはいて、はじめて新しい橋を渡ったものは、橋の下に生き埋めにされるという掟があって、たまたま源助はまちのない袴をはいて橋を渡ったところを見咎められたので、かれが人身御供に上がったというわけであった。そんなわけでこの古い方の橋の、まんなかにあった橋杭は、犠牲者の名をそのままとって、三百年このかた、源助柱と呼ばれていた』
「まちのない袴」とは、股が分かれていないスカート状の袴で、行燈袴とも呼ばれているものだ。現代でいう袴のことだ。江戸時代には、馬に乗るため、股が2つに分かれた馬乗袴が多数派だった。
八雲は、月のない晩など丑満時になると、源助柱のあたりにしきりと鬼火が飛んだという言い伝えも紹介している。
この石碑は、人柱として生き埋めになったという源助を供養するため、昭和14年(1939)に建立された石碑だ。
源助柱の言い伝えには、いくつかの説がある。
八雲の記したまちのない袴の人物説の他に、横縞の継ぎがあたった袴の人物を選んだという説や、実は人柱の条件を言い出したのは源助自身だったという説もある。
茶どころの松江らしいこんな話も伝わっている。
朝、お茶を飲んで出かけようとする源助を妻が引き留めて2服目をすすめたけれども、急いでいた源助は断った。
2服目を飲んでゆっくり家を出れば人柱になることもなかった。
松江ではお茶を1杯だけで済ませるのは縁起が悪く、2服は飲むものだといわれている。
松江大橋は何度も架け替えられ、八雲が松江に来た明治23年(1890)8月は15代目の架橋工事中だった。
翌年3月の開通時、八雲は宿の2階から渡り初めの様子を見たと記している。
源助供養は大正8年(1919)から源助地蔵祭りとして毎年8月23日、24日の両日、市内の望湖山龍覚寺で行われている。
源助柱記念碑の隣に、現在の松江大橋工事中に事故死した深田清技師の殉難碑も建っている。深田技師の死は、昭和の人柱といわれた。
源助伝説は、難工事であった松江大橋架橋のすべての犠牲者を弔うものということなのだろう。
大橋の南詰を八軒屋町という。船改めの渡海場があり,他国問屋で旅人宿を兼ねた8軒の問屋があった。旅人宿はここだけで,大橋の北では宿泊を許されなかった。
現在の松江大橋は、17代目の橋で、1936年に完成した。全国百名橋に数えられる橋だ。水の都・松江の橋は風景であり、インフラであり、経済、文化、生活なのだ。久成寺の小川廣教住職は、「松江城が国宝に指定されたけど、松江は、城下町そのものが、国宝だと思います」と言われていた。
小泉八雲がたった二年の時を過ごした松江は、小泉八雲の過ごしてきたすべての時よりも、小泉八雲という歴史的必然を築き上げた地だ。
松江城下そのものが国宝に指定されてもいいと思う。










