香取神宮参拝の後は、鹿島神宮へ。
式内社(名神大社)、常陸国一宮、旧社格制度の元では、官幣大社。神社本庁の別表神社であり、香取神宮と同様な社格を有している。
楼門
「日本三大楼門」の1つに数えられる。寛永11年(1634)、初代水戸藩主・徳川頼房の命により、造営された。入母屋造の2階建てで、現在は銅板葺であるが元は檜皮葺であった。扁額「鹿島鳥居」は東郷平八郎の書になる。国の重要文化財に指定され、回廊は鹿嶋市指定文化財に指定されている。
拝殿・本殿
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも元和5年(1619)、二代将軍・徳川秀忠の命による造営。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつながれる複合社殿の形式をとっている。楼門を入って、参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にある。社殿が、北面する位置関係になるが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともだ。
元和5年(1619)の造営までは、現在の奥宮の社殿が本殿として使用されていた。本殿は北面するが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあって参拝者とは相対せず東を向く。出雲大社と同様である。
幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。
創建について、鹿島神宮の由緒『鹿島宮社例伝記』や古文書では神武天皇元年に初めて宮柱を建てたといい、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている。
『常陸国風土記』にも神宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現・鹿島神宮)、坂戸の社(現・摂社坂戸神社)、沼尾の社(現・摂社沼尾神社)の3社の総称であるともする。
参道を進むと鹿園がある。
国譲り神話において、鹿の神である天迦久神が、天照大神の命を武甕槌大神に伝える重要な役割を担ったことから、現在でも鹿が神の使いとして大切にされている。奈良に春日大社を創建する際も、鹿島の神様の御分霊を鹿の背中に乗せて遷ししたと伝わっている。
奥宮
現在の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼として奉納したもので、この社殿は国の重要文化財に指定されており、奥宮は鹿島神宮の最も古い社殿の一つ。
要石
地中深くまで埋まる要石が、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられている。徳川光圀公がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めた、という話が黄門仁徳録に記されている。
飛鳥時代から、現在に至るまで、崇敬をあつめている。
神宮の鎮座する地は「三笠山」と称される。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている(摂社坂戸神社境内、摂社沼尾神社境内、鹿島郡家跡も包括)。
境内の広さは約70ヘクタールである。このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されている。樹叢には約800種の植物が生育しており、神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く、茨城県内では随一の常緑照葉樹林になる。
大和朝廷は、日本という国土を把握していたことがわかる。出雲王国、吉備王国は、自身の王国のエリアを把握できていなかったと思う。大和朝廷を作った高天原の勢力は、やはり、大陸からの勢力なのだろうということが、神社を訪ねて知ることもできるのだ。






































