所縁があり5/13の蓮如忌法要に参列しました。

浄土真宗本願寺派の中興の祖・蓮如上人は堺に滞在した時期は短いと思いますが、大きな影響を与えているので、毎年の5/13&5/14の両日は、本願寺堺別院で蓮如忌が執り行われます。



平日の昼間ですし、蓮如上人の御命日(5/14)の法要に出向かれる方々の方が多いのではないかと思います。


蓮如忌ですが特別な作法で執り行われ、読経されるお題目も特別なものが使われます。





本願寺堺別院についての説明は、公式サイトの「堺別院由来」に 下記のように記載されていて、堺と蓮如上人との関係が詳しく書かれています。



堺は古くから海上交通の要衝でした。特に文明元年(1469年)に中国から帰った遣明船が入港して以来、日明貿易の根拠地となり、堺商人は強い経済力を持ち、やがて自治都市を形成します。蓮如上人は遣明船が帰港した翌年、文明2年6月に堺南庄の紺屋道場円淨に寿像(蓮如上人の肖像)を授けられ、同年10月には堺北庄の山口中町の樫木屋道場道顕に親鸞聖人御絵伝を、さらに文明8年(1476年)には同じく道顕に対して開基道祐の影像を、それぞれ免許されました。



上人は文明7年秋に越前吉崎から畿内に帰られて伝道されますが、堺の重要性に着目し、道顕のすすめにより、翌文明8年に御坊を営み信證院と称しました。文明11年(1479年)堺の坊舎は、前年から造営にとりかかった山科本願寺に移築されました。山科の御影堂は文明12年、阿弥陀堂は文明14年にそれぞれ落慶しました。



その後、堺の坊舎は再建されましたが、その年次は不明です。明応3年(1494年)上人は堺御坊の本尊に紺地金泥の九字名号(南無不可思議光如来)を定められました。上人は堺御坊にしばしばおもむかれますが、御坊におけるご教化について、つぎのような事柄が伝えられています。上人は、堺御坊の御堂の卓上に御文章を置かれ、参詣人があると、必ず読ませられました。上人は「参詣人はたとえ一人であっても、御文章を読みきかせたならば、ご縁のある人は、信をとるであろう」と申されました。



またある時は、夜ふけて蝋燭をともして、お名号を書かれました。ご老体ゆえに、御手もふるえ、御目もかすみ、ご苦労されながら筆をとられました。翌日越中へ行く人に託すためでした。これも、ただ信をとらせたいとのおぼしめしからでした。
あるとき、中国大陸北部の契丹人が4,5人つれだって上人を訪ねてきました。それは、ひとり子を死なせ、嘆き悲しみ、蓮如上人の名声をきいて、来日したのでした。上人のご勧化によって、阿弥陀仏の本願のありがたさを知り、上人から六字名号を頂戴して帰国したといいます。



本願寺の中興に尽力した本願寺第8世・蓮如上人が堺を訪れ、堺での布教の結果で信證院(後の本願寺堺別院)が建立されたことは、後の戦国時代を考えると目立たないけど影響は大きかったと思います。



◇ 蓮如上人の生涯他 ◇
◎1415年;4月13日に大谷本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院〈そうたいいん〉付近)で、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。


◎1420年:蓮如6歳の時、生母は本願寺を退去し、存如が海老名氏の娘・如円尼を正室として迎える。
◎1431年:17歳の時中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度し、実名を兼郷の一字を受け兼壽、仮名を兼郷の官途名である中納言と称し、法名は蓮如と名乗った[。
◎その後、本願寺と姻戚関係にあった大和・興福寺大乗院の門跡経覚について修学。
1465年:延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定し、大谷本願寺を破却する。
1465年:蓮如は祖像の親鸞御影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。
1468年:北国、東国の親鸞遺跡を訪ね、三河に本宗寺を建立する。

 

 


1469年:延暦寺と敵対している園城寺の庇護を受け、別所近松寺の敷地の一部を譲り受けて大津南別所に顕証寺(後の本願寺近松別院)となる堂を建立。

 

 


1471年:4月上旬、越前吉崎に赴き、7月27日、同所に吉崎御坊を建立。
◎1474年:加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。その後に加賀で一向一揆が勃発。
◎1475年:8月21日に吉崎を退去し、小浜、丹波、摂津を経て河内出口(後の光善寺)に居を定めた。
◎1476年:堺に信證院(のちの本願寺堺別院)が創建。
◎1478年:山科に坊舎の造営を開始。
◎1479年:堺の坊舎は、前年から造営にとりかかった山科本願寺に移築。
◎1483年:8月22日、山科本願寺が落成する。
◎1486年:紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎(了賢寺)ができる。
◎1488年:5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。7月に蓮如は消息を送って一揆を諌めた。
◎1493年:山科南殿に隠居して「信證院」と号する。
◎1496年:9月、大坂石山の地に大坂御坊を建立し、居所とした(後の大坂本願寺(石山本願寺))
◎1499年:5月14日に山科本願寺において85歳で示寂。



蓮如上人亡き後に、浄土真宗本願寺派(一向宗)を巡って様々な事柄が起きていますので、主な点を抜粋しておきます。★印は間接的に関連性があるもの、☆印は本願寺に対して影響が大きい事項を示しています。


★1532年:7月に堺で一向宗徒に攻められ、法華宗徒の三好元長が顕本寺(本願寺末寺)で自害
☆1532年:8月に法華宗徒により山科本願寺が焼き討ちにあい全焼。以後、本願寺は石山本願寺(現在の大阪城付近)を拠点とする


★1569年:本圀寺の変。織田信長が堺に矢銭(軍資金)を要求。一向宗寺内町出身の堺の豪商・今井宗久が仲介役として堺が信長に矢銭を支払うことで講和。
☆1570年:10月に織田信長と顕如(本願寺世)の抗争勃発 [石山合戦]
☆1580年:9月に正親町天皇の仲介で、信長と顕如が講和。
⇒本願寺は石山本願寺を明け渡したのち、紀伊国鷺森本願寺、次いで和泉国貝塚本願寺を本拠としていた
☆1585年:豊臣秀吉より天満に土地が与えられ、天満本願寺(現在の大阪造幣局付近)が出来、周辺は寺内町化する。
★1582年:本能寺の変で織田信長死去。豊臣秀吉の時代到来
★1591年:1月に豊臣秀長が死去
★1591年:2月に千利休が京都の屋敷で切腹
☆1591年:7月に豊臣秀吉の命令で京都六条堀川の法華宗寺院・本國寺の境内地一部を与えられ西本願寺が建立される。




◇ 本願寺堺別院の基本情報 ◇
宗派  :浄土真宗本願寺派
御本尊 :南無不可思議光如来
創建年 :1476年(文明8年)
開山  :樫木屋道顕
別称  :堺御坊
公式サイト :https://sakaibetsuin.or.jp/
所在地 :大阪府堺市堺区神明町東3丁1-10
最寄駅1:阪堺電気軌道阪堺線「神明町停留場」徒歩3分
最寄駅2:阪堺電気軌道阪堺線「妙国寺前停留場」から徒歩3分