義母が私に良く言っていたことの一つに



女は大変なんや



という言葉がある。



初めはそうなんだよねー



と思っていた私も



さすがに、ストレスから肺炎起こして



ドクターから体を休ませるように苦言も呈された時には



義母のこの言葉には、

何か違うと違和感を持った。



当時、乳児の子供の深夜の泣きぐずりで絶賛不眠だった。


夫のモラハラに、

家事も帰ってきてからやり、

仕事でパワハラを受けていた私。



ドクターから、

これ以上無理したら入院になるよ!

診断書出すから休んだ方がいい!


とまで言われてしまった。


夫も訳わからないこと言って休むの反対だし、


義母にも反対された。



女は大変なんや



この言葉は、義母の年代の人の固定観念からくるものだとも思った。



「私」と言う個人はこの家では認められない。


「女」「嫁」「妻」「母」


この種類にしか分類されないんだなーと思った。



女は大変なんやの後に



聞いてもいないのに、

義母は自分の昔話をした。


自分がいかに頑張ってこなくそ根性でやってきたのか。


体調がかなり良くない私に


女は大変なんやと、鼓舞するようアドバイスされてるように感じた。



私は、鞭打たれて重い荷を運ぶ馬車馬のようだと思った。



そこで、休む!と言い切って休むこともできたのかもしれない。


でも、休むことに非協力的な夫と義母がいる家にいても、治るものも治らないし、


当時、絶賛モラハラ中の夫に、唸られるのが予想できた。


頭の中にある「芯」のようなもの。


それが、私を支えてくれた気がする。


仕事が終わってから、診療日には点滴をうちに行き、帰ってからのルーティンはいつも通り。


頭と胸に「堪えて」「耐えて」


頭に血を巡らせ過ぎないように


なるべく、無心で淡々とするようにした。




今は思う。


「女は大変なんや」


この言葉は


私の尊厳や人としてのあり方を踏み躙る言葉だ。


女だとか男だとか


そんなもので、馬車馬のように扱われることは、私そのものを否定されている気がする。


誰かと何かを共にしていくということは、


女だとか男だとかは関係ないと思う。





「人」


これにつきると思う。





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