今日4月19日は叔父の祥月命日で、23回忌の法要をしていただいた。


母の妹だった叔母夫婦には子供がいなかったので、跡取りがなく、我が家のお墓に叔母と一緒に埋葬されている。

運勢とか、暦を読む方々に伺うと、苗字の違う人をお墓に入れるのは良くないといわれているが、親族の少ない我が家では、皆大事な人達なので、そんな事は一向に構わないでいる。


我が家の大事な人達だから、我々に害をする事は絶対にないし、むしろ守ってくれていると思う。


我が家のお寺「多門院」の和尚様とはとても長いお付き合いで、私の祖父母を見送り、叔母夫婦を見送り、最後に私の母を見送って頂いた。

実際、私も一人っ子で、苗字が変わってしまい、私の家系は絶えてしまったことになるので、叔父の法要をお願いする事は考えていらっしゃらなかったみたいであった。そのため今日の日をとても喜んでくださり、病気で引退されたにもかかわらず、わざわざお経を上げてくださった。そして、祖父母の代からの思い出をしんみりと語って下さった。


この和尚様はとても声がよく、何故か祖父母も、叔母夫婦も、そして母も、それを自慢に思っていたようである。異口同音に、『聞きほれてしまう」と言っていた。今日も衰えることなく素晴らしいお声であった。和歌も詠まれ、絵も描かれる多才な方である。


私の一族・・・と言っても、祖父母には5人の子供がいたのだが、アメリカに一人、音信不通の従兄弟はいるだけで、後は私と、子供達、孫達の総勢10人。

少ない人数であったが、和尚様の『心をこめてお経を上げさせていただきます。」という温かいお言葉で、本当に温かい法要が出来た。


ある大きなお寺では、『今日は御前様がご出席くださいます」と言われ、我々もかしこまったのだが、その御前様は我々のほうには一瞥もなく、お焼香が終わると、直ぐにお経も終わり、さっさと退場されてしまった。義務を果たした・・・という感じで、全く何の温かみもなかった。


叔父が生前、『自分のお葬式の時は、この和尚さんに見送って頂きたい」と言っていたが、同感である。

私もこんな事を考えるような年になってしまったのだろう。

チョッと前(?)の若い頃には考えなかった事である。