何年振りかで、亡くなった親友の妹シーちゃんに会った。
我が親友ロコちゃんは、コマちゃんやナベちゃんと同様高等部時代からの友人で、大学を卒業してからも、転勤先に遊びに行ったりと、お付き合いが途切れる事はなかった。
高等部時代は、ロコちゃん姉妹と、今ハワイに住んでいるオフジ姉妹がとても仲がよく、一人っ子の私には羨ましい存在であった。
他県への転勤も終わり、彼女達が横浜に定住してからは、子育てに忙しいといいながら、行ったり来たり。
そして彼女は「リュウマチ」を患ってしまった。
クリスチャンだった彼女は、電話を持つ事が出来ない程苦しんでいる時でも笑顔を絶やさず、「本当に病気なの?」と尋ねたくなるほどだった。
旅行から帰ってきて、お土産持っていくと、「動けない彼女に、旅行の話なんて酷よ!」と言う友人がいたが、彼女は、「私は行かれないのだから、話だけでも聞かせて。」と、私には言っていた。
正解はどっちだったのだろう・・・と今でも考える事がある。
何回も入退院を繰り返し、薬の副作用もあったのだろう、さらに彼女は「くも膜下」で倒れた。
しかし、一週間の昏睡ののち、彼女は奇跡的に復活した。お見舞いが許されて、病院に行った時は、全く動けない状態でありながら、いつもの笑顔が、「私偉かったでしょう。頑張ったのよ!」と言って、我々を迎えてくれた。
彼女から「痛い」だの、「何処にも行けない」等の愚痴を一度も聞いた事がなかった。助かったとは言え、彼女の体は人工透析をしなければならなかったり、と、ボロボロだったのだ。
くも膜下のリハビリのための病院に移ってから、彼女の顔から笑顔が消えてしまった。
その病院ではリハビリだけをやって、彼女のリュウマチの治療やら、ボロボロになった内臓の治療を全くやってくれないので、折角取り留めた命なのに、どんどん悪くなってしまい、自分の寿命を悟ってしまっているようだった。
お見舞いに行ってその様子を知り、コマちゃんが、彼女の親戚のご尽力で、リハビリも、リュウマチも全てを見てくれる大きな病院を紹介して、転院するばかりの手はずを整えたのだが、何故か、ロコのご主人はそれを断ってきた。ご主人も大学が一緒の我等の友人でもあった。
彼は、リュウマチの治療にどんなにお金がかかり、大変であるかを我等に訴えてきたが、ロコちゃんのお父様は防衛庁長官もなさったりという方で、亡くなられた時に、彼女にかなりの財産を残されたので、お金の心配はまったくなかったのだ。
それなのに何故?
彼女がリハビリの病院に入っているときに、私はC型肝炎の治療で、川崎にある虎ノ門病院分院に入院する事になった。
「お互い頑張ろうね!」と言い合って入院したのだが、退院しても、もう会えないような気がしていた。
「2駅先の病院にロコが入院しているから、外出許可を貰ってお見舞いに行ってくる。」と言う私の電話の返事として、母から、「マミーも病気で入院しているのだから、それだけは辞めて。」と、留守電が入っていた。
大事に取っておいた母の声が入っていた電話をダーデイーのミスで消してしまい、思い出すと残念で今でも涙が出る。
私が退院しても彼女は頑張っていたが、私がお見舞に行ける状態ではなかったので、結局、彼女の寂しそうな顔を見たのが、最後になってしまった。
ロコの妹シーちゃんは筑波から、ロコの世話をしに通っていて、やはり、その病院に居続けることを不思議に思っていた。
彼女も心痛で、その頃、欝になりかかっていて、誘眠剤を手放せない状態だった。
ロコが亡くなったのは4月6日。教会での葬儀で、ナベちゃんの弔辞は心を打つ素晴らしいものだった。
4月の桜の頃になると、ロコの思い出話をするために、ナベちゃん、こまちゃん、しーちゃんと4人で、上野で待ち合わせて、デートをしていたのだが、我が家の事情で、今日が、久し振りのデートとなった。
今回は上野ではなく、「モジリアーニ展」を一緒に見ようと、国立新美術館でのデートとなった。ナベちゃんは風邪引きでパス。
しーちゃんもすっかり元気ななっていた。
そしてビックリした事に、ロコにそっくりになっている。後姿は間違えてしまうほどだ。母親には似てくると言うが、姉妹でもこんなに似てくるものだろうか。ロコもそうだったが、シーちゃんもすごい美人である。
そして、3人とも、今でも『何故、何故・・・」の疑問が残って、ロコのご主人を許していない。