新年のご挨拶がおくれましたが、本年もよろしくお願いたします

 

さて、今日の題は、初夢ということですが、とくに「歌」と「音」について徒然なるままに筆を進めてみたいとおもいます。

 

 初夢や祇園精舎に除夜の鐘

 

戯れに即興で詠んでみましたが、祇園精舎は「ーの鐘の声、諸行無常の響きあり」の書き出しで有名な『平家物語』から採ったものです。新年早々に「死の影」とは縁起でもない。そのうえに「除夜の鐘」とは。ま、蛇足ながら「初夢」は「正月」でもいいわけですが。

 

というのも新年早々にある抑えがたい無常感に捕らわれてのことです。もっとも、古(いにしえ)の歌人も、お目出度く賑やかな正月に一歩距離を置いています。

 

 めでたさも中くらいなりおらが春 小林一茶

 

 正月は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし 一休宗純

 

さて、話は代わって、ある外国の著名人ーその方の名前は不覚にも失念していますが、仏の文学者のアンドレ・マルローだったか、日本文学史で日本に帰化したドナルド・キーンさんだったかーが、日本の短歌、俳句には外国にはない「」に関して強い感性があると述べています。

 

 古池や蛙飛び込む水の音 松尾芭蕉

 

 静けさや岩に染み入る蝉の声 松尾芭蕉

 

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規

 

私にとって衝撃だったのは、芭蕉の「静けさやー」です。一般的に、蝉の声は五月蠅く感じられるものです。俳聖芭蕉は二つの異世界を見事に統合して具現化した天才的俳人です。私たちと観る世界が違うのだなとつくづく思い知らされます。もっとも私が好きな芭蕉の俳句は次のもの(辞世の句)です。

 

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 

これは今さら解説は不要でしょう。

 

次は昭和天皇の御製です。昭和天皇も珍しく「音」を読んでいますが、その前に「」を詠んだ有名な御製を紹介しましょう。

 

 降り積もる深雪(みゆき)に耐えて色変えぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ

 

これは敗戦翌年の昭和21(1946)年に詠まれた歌です。大意は、私の国民よ雪の降る厳しい自然にあってもじっと耐えて萎(しお)れもせず雄々しくある松のように、どんな困難苦難にあっても耐えて試練を乗り越えて生きていこうじゃないかと、国民を懸命に励まされているのです。歴史上もっとも英明であらせられた昭和天皇は、普段は愚直なまでの生き方をされています。そんな昭和天皇にも最期は近づいています。

 

 あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

 

この歌は最晩年の昭和63(1988)年に詠まれました。自分なりに感じたことを書き留めれば、「音たえてさびし」とは、自分の生命が消えかかっていることを、無意識的に無常なものとして詠んだのではないでしょうか。「音」という語彙が二度も登場するとは、ある名状しがたい切実さを感じられずにはおれません。「音」を「生」と読み取るのは深読みかもしれませんが。

 

そのあとにつづく「さびしうつりしならむ」は、身に染みてくるような寂寥感に襲われて、粛然とされているお姿が目に浮かんできます。天皇であられせられる前に、日本人としての無常観死生観を切々と謳われたのかもしれません。ある意味辞世の句といってもいいかもしれません。

 

最後に「音」に関しての小説(散文詩が横溢している)を紹介しましょう。

 

 《さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音()で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切(ちぎ)る。

 

史上最年少で芥川賞を受賞した綿矢りささんの受賞作品『蹴りたい背中』の冒頭文です。青春まっしぐらな高校生活にあっても孤立し、人知れず孤独感に苛(さいな)まされている光景は決して珍しくはありません。

 

しかしながら、この綿矢さんの書き出しの文章には、はっとさせられますね。綿矢さんの独創性は本来ならさびしさは「募る」ですが、「鳴る」と擬人法化したことで新境地を開いています。「さびしさ」が「高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて」心の襞(ひだ)にまで侵入してき「胸を締めつける」孤独の痛みの表現力は尋常(じんじょう)ならざるものがあります。更にはその辛さを「周りに」は気づかれまいとする、今にも折れそうになる誇り・自尊心を必死に支えている様は息をのみます。

 

綿矢さんは、この冒頭を書き表すのに1年近くかかったということです(評論家・福田和也氏)。青春のさびしさ、孤立感をここまで表現できる力量は並大抵のものではありません。純文学の醍醐味はなんといっても、文章の美しさです。

 

序でですが、私はいまある物語を構想中ですが、これも書き出だしは「音」をきっかけとして始まります。概要を話せば、恋愛関係の破綻の末に心中するも、男は死に、女は意識不明の重体に。しかし女にはやはりどうしてもやり遂げたいことがあり、男の霊を呼び再会を果たすのですが、あにはからんや男は「記憶喪失」になっていて、女のことはなにも分からない。

 

女は"片想い"のままに、二人はあることを成就させる。これにより女は亡くなり黄泉の国へ旅立っていきます。男は女の母親の家で、女と自分が映っている写真により、二人のただならぬ関係を知るのですが、もはや後の祭りです。独り取り残された男は、孤独に身悶えしながらも耐え忍んでいる。とこんな他愛のない話ですが、記憶喪失をどう合理的に説明できるのか。そんな都合のいい話に「現実味」をいかに持たせられるかが課題でもありやりがいでもあります。

 

いま考えているのは、女の母親(彼女にとっては男は娘を死なせた許しがたい男ではある)が、「成仏できない霊はこの世に救い難い未練があるものなのに、あまりに深い悲しみがあなたの記憶を失わせたのか」と言わせて、作者(私)は合理性を求めていますが、まだまだ言葉足らずの感がありますよね。なお物語はいわゆる怪奇小説ものではありません。

 

 

まそんな訳で、今年の初夢は「無常観」をモチーフにしたものからスタートしたのですが、「物語」はなんとか完成させたいと思っています。長々と他愛ないお話にお付き合いいただきありがとうございました。

 

おくればせながら、本年も良い年でありますよう、お祈り申し上げます

 

 

 

あかげらの叩く音するあさまだき・・・

 

 

 

昭和天皇 日本を国難から救われた最も尊いお方