続きその4です☆


待ち受けていた育児は、それはそれは拷問かと思うことがありました。
(いや、まだ育児真っ最中だから、継続中!?)


なぜなら、産まれてきたムスメは私が関心を持ってきた「食」に対する興味が全く無く、
そして食物アレルギーがありました。(今は治ってます!!)
飲食の仕事を辞めてからは、離乳食づくり・・・なんて夢みて生活してましたが、当の本人は
1歳すぎても2歳すぎても食べられる種類も量も片手でおさまる程で、咀嚼もままならず東京の大学病院にも通ったこともありました。

ホントほとんど母乳とおにぎりだけで育った感じです



食物アレルギーもあったことから、卵や牛乳の除去を家族で始めたことをきっかけに
再び「自然食品」や「マクロビ」への関心が高まりました。

今もなお少食で食べないものも多いですが、就園前より(現在5歳です)ずっとよくなりました。
そして、卵のアレルギーもなくなりましたし、牛乳も飲めるようにはなりましたが、我が家では
卵、牛乳はかなり控えてるので、本人も好まないようです。



そしてその後産まれたムスコ(現在2歳)はそれを上回る試練を私に与えました。

・・・・・・・・母乳すら飲まない。(飲めない!?)


産まれてから基本、おっぱいを嫌がり、ミルクも飲まず、それでも何とか母乳をあげ
育ててきましたが、嚥下すら難しそうで、生後5カ月の時には手術もしましたが大きな
改善は見られず、飲めないせいもあり、病弱だったり、極度の貧血があったりと不安
要素も多く、私もノイローゼになりそうに。(なってたね


唯一の生命線である母乳を維持するのも大変で、母乳マッサージには結局1年半で10万
かかりました
そして追い打ちをかけるかのごとく、乳糖不耐症になり母乳をあげると下痢になる症状まで
出てきました。そこからラクトレスのミルクや大豆のミルク、米からつくったミルクをスポイトであげる生活が約1年続きました。(←哺乳瓶を受け付けなかったため)
そんな中でもすこしずつ母乳をとめないために騙し騙しあげたりしていたので、心身ともにぐったりでした。

病院にいっても、本人の意思で食べないだけで、カラダに異常はないといわれるだけ。
でも、どう考えてもお姉ちゃんの時とは訳が違う。 嚥下さえままならず、嘔吐も頻繁に
繰り返す・・・・・。


そこでたどり着いたのが、カイロプラクティックやオステオパシーといったものや代替療法、
そして究極「ヒトはいかに食べないで生きられるか」ということに興味をもつようになりました。
(自分はストレスで食べまくってたけど


実際、コドモをカイロに連れていくと、やはり喉のあたりは嚥下しずらい感じになっていて
少し治してもらうと、その日だけ少し飲み込めたり、なんてこともありました。結局継続
して通えず(大泣きされたり、具合が悪かったりで)、そのままになってしまいました。


途中母親の気持ちのせいだと、ダンナや周囲から言われ、ホントにやりきれない気持ち
でいっぱいでしたが、ある日を境にうそのようにムスコは食べることができるようになりました。



「突発性発疹」というよく0~1歳児がかかるものにかかり、高熱が3日位続き、発疹が出たのちから、突然バナナやさつまいもを欲するように。
あの日の感動は今でも忘れません
とにかく食べられるを日々あげ続け、次第に海苔まきを食べられるようになり、保育園にも
入ることができました。













続きその3です☆


会社を退社し、その後全く未知の街へと嫁いだ訳ですが、何せ全く知り合いのいない
土地。
日々つまらなくなりたくないので、とりあえず大手クッキングスクール(笑)に通い詰め、
料理、パン・・・・をせっせと習いました。
「食」に興味をもちつつも、ほとんど母のお手伝いをしてこなかった親不孝者なので、この
スクールにはだいぶお世話になりました。


そして、時間に余裕もあったので周辺のカフェを巡りまくってました。

そこから「カフェで働いてみたい」という気持ちが湧いてきたのですが、家業と家庭の
都合で当時は外で働くことができず、うやむやな気持ちでいました。



旦那様の実家(静岡県裾野市)ではお茶を栽培していて、毎年5月の初旬にはお茶摘みという
一大イベントがあります。そこから「お茶」に興味をもつようになり、勉強し「日本茶インストラクター」という資格を取得し、色々な場所に出向いては、お茶の淹れ方や呈茶のお仕事を少しさせて頂けるようになりました。


でも「カフェ」への気持ちが捨てきれず、思い切って住んでいる沼津から代官山へ1年半毎週末通って、調理の勉強をすることにしました。


そこでは包丁の基本から、最終的には色々なシュミレーションまで勉強しましたが、やっぱり実際現場に入らないとダメだと思い、スクールに通いながら地元の飲食店でバイトすることに。
が、しかしこれからだ!!!という時に妊娠し、重いお腹で途中まで働きましたが辞めざるを得ず、そこから数年育児への生活へ突入したのです。

続きその2です☆


就職して配属されたのは「冷凍食品やアイスの営業部」
まったく未知のカテゴリー
その時、本当は商品を開発したりする部署にいきたかった


なぜ営業部に配属されたのか・・・・・
ただ一重に「体育会系だったから」に違いありません(苦笑)



少し慣れてきた頃に、営業サポートとしていくつかの得意先の担当をもつことに
なり、その得意先が「生協さん」でした。
私が小さい頃から、うちは生協さんに入っていて、毎週トラックのお兄さんが色々なものを
運んできてくれるのが楽しみでした。だからすごく馴染みのあるお得意先でした。



生協さんは一般の小売店よりは商品に対して色々基準がシビアで、その中には「添加物のチェック」「5大アレルギー含有のチェック」というものがありました。各生協によって、その基準は異なりますが、商品を紹介する前に事前に禁止添加物がないかチェックする仕事をしました。
そこで、「食」に興味をもつきっかけとして中学校の時によく見ていた「一括表示」と再会
したわけです。


以来、何でもすぐパッケージの「裏」を必ず見るのは今に至ります。



そんな仕事をしていた中で「雪印事件」を始めとした食品偽装事件があり、食品への不安
な気持ちが高まりつつも・・・・・・・


冷凍食品・アイスクリームの部署だったので、大好きな食べる仕事もいーっぱいあり、
営業男子と呑んでは食べ を繰り返していたわけです。


そんなこんなで、相変わらずキモチとカラダは裏腹に、暴飲暴食を続けていましたが
色々あってその会社を退社することになりました。
(注:別に悪事を働いたワケではありません