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NAC起業スクール開校:「起業」という生き方を選ぶ人たちの話

NACクリエイティブ起業スクール開校。起業選んだ人たちのスタートアップな話。

セレンディピティという言葉を知った時、ストンと腑に落ちた。なんとなく考えたいた事がまさに単語としてあったから。

夢を語りだしてから僕の周りに起きた事は、誰もが同じ結果になるわけではない。何かが起こってても、それに気づかなければ始まらないし、気づいても拒絶したりすれば何の変化も起きない。

僕は、おとなしく、人目を気にし、人に嫌われるのが嫌だから相手の気持ちばかり考えていたので、気づく力と、受け入れる力は人一倍あった。じゃないと、この世の中で生きていけなかったから。いち早く気づいて嫌われないように配慮して、嫌な事は全て受け入れてきた。


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そんな僕が勢いで会社を辞め、自分で何かやるしかないとなった時、夢を語りはじめた。それが僕にとっての最初の大きな行動だった。

行動して、それで起こった事に気づいて、受け入れて。そしてセレンディピティと出会った。

茂木さんからは、セレンディピティという言葉や、セキュアベースという言葉を聞き、どちらも僕が人間にとって必要だと思っている事だったので、言葉になっていて本当によかった。

あれから僕のすべき事は明確になったから。セキュアベースはほんとに大事。

そんな茂木さんがセレンディピティ4部作を書いていたので、メモがてらコピペします。



今朝は、セレンディピティについて考えてみよう。セレンディピティとは、「偶然出会う幸運」のことである。もともと、イギリスの初代首相のロバート・ウォルポールの子どもで、作家のホラス・ウォルポールが、手紙の中で「セレンディピティ」という言葉をつくった。

『セレンディプの三人の王子』という童話があり、その中で、王子たちが旅をしながら偶然の幸運に出会って、目的を達する。これに因んで、「セレンディピティ」という言葉を、ウォルポールがつくった。それが広まって、今では偶然に出会う幸運のことを、セレンディピティというようになった。

セレンディピティは、生きる上で大切である。なぜなら、私たちは外に向かって開かれた存在であるから。何もかも、自分で背負う必要はない。リラックスして生きてよい。自分の手柄でも、才覚でもなく、遠くからやってくるものが、自分にとってかけがえのない生きる糧になるのだから。

セレンディピティはまた、偶有性の根幹である。偶然を、必然にするのだ。何かに出会う時、それでなければならなかったということはない。でも、出会ってしまえば、それでなければならなくなるのだ。運命は最初から決まっているわけでなく、過去にさかのぼって、決まっていたことになる。

セレンディピティの三条件。まずは、「行動」することが大切である。自分の中に閉じこもっていては、偶然の幸運に出会えない。目的は何でもよい。とにかく、広い世界に出て、旅すること。出会うこと。ノイズもあるが、その雑音の中にこそ、偶然の幸運への兆しが聞き分けられる。

セレンディピティには、「気づき」が必要である。せっかく偶然の幸運に出会っても、それに気づかなければ仕方が無い。そのためには、「周辺視野」に心配りすることが必要。今、自分が目的としている「中心」だけ見ていると、そのすぐ横にある大切な出会いに気づかなくなってしまう。

セレンディピティには、受け入れることが大切である。せっかく新しいものに出会っても、それを「受容」することができなければ、生かせない。今までの自分を守ろうとして、新しいものを頑なに拒絶してしまうこともある。セレンディピティとは、古い自分が消えて、新しい自分になること。

今、この時をつかむこと(Seize the moment)が大切。人生という海を泳いでいて、ああ、きれいな魚がいるな、と思ったら、その瞬間がセレンディピティ。その時を逃したら、二度と出会えないかもしれない。「行動」「気づき」「受容」のサイクルを、やわらかい心で繰り返す。

セレンディピティは、呼吸することに似ている。世界に出会い、受け入れ、放出する。しなやかに、周囲とやりとりすることを知っている人は、セレンディピティに出会う人である。それは、オープン・システムとしての私たちの基本的なあり方。生命の歴史は、セレンディピティで育まれてきた。

連続ツイート第757回「今朝は、セレンディピティについて考えてみよう」



この"やわらかい心"っていうのが凄い大事だと思うんですよね。ニュートラルというか自然というか、カチコチになってると、どうしても周りが見えなくなります。そしたら行動してても気付けなくなるし。力入れて頑張るのもいいけど、自分らしく自然体で楽しみながら行動する。


昨日の連続ツイートで、セレンディピティ(偶然の幸運に出会うこと)の三要素として、行動、気づき、受容を挙げた。このうち、最後の「受容」が案外難しく、また精神の若さ、アンチエイジングにもつながるので、その点について今朝は改めて考えてみたい。

身体に免疫系があるように、脳(心)にも自己のホメオスタシス(恒常性)を維持しようという作用がある。すなわち、自分と他人を区別し、今(までの)自分と異質なものは排除して、自分自身の中に入れないようにするのである。そのようにして、自分の安定を保とうとする。

異質なものを排除し、自分を維持することは、ある程度は必要なことである。しかし、それが行き過ぎると、せっかくの偶然の出会いがあっても、自分が変わるきっかけを失ってしまう。セレンディピティがもたらす最大の祝福の一つは「新しい自分」だが、そのチャンスを逃してしまうのだ。

新しいものに出会い、それを受け入れて自分が変わるということは、春になって木の芽がふくように、胸がざわざわする経験である。自分がどこに連れていかれるかわからない、どのように変わるかわからない。そんな、不安と期待が入り交じった気持ちが、受容できていることのしるしである。

新しい自分への推移において、脳の中で、感情や記憶の回路が関与した、再編成が起こる。その過程では、苦いこともあるし、不安なこともある。価値観が少しずつ変わり、今までとは違ったかたちで、世界が見えるようになってくる。その不安定のトンネルを抜けて、初めて新しい自分に出会える。

偶然の幸運(セレンディピティ)に出会って、新しい自分になる。典型的なのは、恋愛である。恋愛は、特に精神が若い時には、相手への反発で始まることも多い。今までの自分と違うものを持っている人に出会った時、反発すると同時に惹きつけられる。そして、受容することで、変わっていく。

恋愛は、人との関係だけでなく、一つのモノ、文化、文明との出会いにおいても起こる。明治維新は、日本が西洋という大きな新世界に出会って、それを受容することで変わっていった一つの恋愛のようなものであった。その過程で、「ハイカラ」といった日本独特の文化も生まれていった。

脳の若さとは、つまり、変わる可能性、能力のことである。そして、精神が老いた時、今までの自分を頑なに守って、異質なものを排除しようとする。相手にレッテルを張って決めつけ、自分が正しいと安易に正当化しようとする。ツイッター上でも溢れるそんな態度は、老化のしるしだ。

新しいものと出会って、自分が変わるときには、胸がざわざわとする。それがしるしである。誰にでも、幼いときを思い出せば、自分がかわる時の、幼虫がさなぎになり、やがて蝶になるときの不安に満ちた甘美な変化の感触を覚えているはず。大人になってもそれを引き受けられる人は幸いである。

連続ツイート第758回「ざわざわするのが、しるし」




引き続き、セレンディピティ(偶然の幸運)について考えよう。セレンディピティの三要素(行動、気づき、受容)のうち、気づきは、きちんと向き合おうとすると案外難しい。目の前に大切な出会いがあっても、気づかないということが日常的にあり得るのである。

たとえば、ガールフレンドとデートでご飯を食べ始める。30分くらいした時に、彼女が、「ねえ、私、何か変わったところない?」と聞く。その瞬間、あなたは恐怖の思いにかられる。「あっ、君、髪の毛切ったんだね」もう遅い! 変化があっても、気づかないことはよくあるのだ。

目の前にあるのに気づかない。ここには、意識の二重構造がある。記憶や認知にかかわるHOT(higher order thought)と、その時々に視野の中に見えているものの相対(visual overflow)は、一致しない。前者は後者のごく一部に過ぎないのだ。

視野の中にあるさまざまなものは、見えているようで見えていない。だから、セレンディピティのきっかけになるもののほとんどを、私たちは見逃してしまっている。宝の砂が、手の間からぽろぽろこぼれている。人生は、時々刻々、「もったいない」のかけ流しのようなものなのである。

少しでも、セレンディピティのきっかけを拾うには、どうすればよいのか。人間は、どうしても、ある特定のこと/ものに注意を向けがちである。何かを目的として行動している時に、その目的以外の、周辺視野にあるものに、注意がなかなかいかなくなってしまうのだ。

視野の中にある、特定のものに注意を向けて、それ以外が見えなくなってしまう。これを武術では「居付く」という。何か特定のことに「居付いて」しまうと、それ以外の周辺視野の中にある、たいせつなセレンディピティのきっかけになるものに、気づかずに取り逃がしてしまうのだ。

たとえば、喫茶店で打ち合わせをしているとする。間の前にいる、相手に注意を向けることは大切である。その一方で、セレンディピティのきっかけは、隣のテーブルに座っている人にあるのかもしれない。あるいは、店の壁にかかっているポスターにあるのかもしれない。とらわれてはいけない。

つまり、セレンディピティのきっかけをつかむために必要なのは、ある種の「注意の配分」の芸術である。今対象になっているものに7割として、それ以外のものに3割くらいの注意を払う。そして、何か注目すべきものがあったら、無意識から「ポップアウト」するものを拾う。

全体を、やわらかく見ること。これが、セレンディピティのきっかけをつかむために必要なこと。そして、それは案外難しいことである。一日生きる上で、どれだけ多くのことが、私たちの意識を通り過ぎていくことだろう。そのきらきら光る宝物のうち、ごく一部だけでも、拾うことができたら。

連続ツイート第759回「全体を、やわらかく見る」



僕は幸いなことに、全体を見ることを小学生の頃からしていた。これって多分、自分に自信が無くて、周りの目ばかり気にしている人はほとんどできてるんじゃないかなぁと思うんやけどどうなんやろう。


本日も、引き続き、セレンディピティ(偶然の幸運)について考えてみよう。セレンディピティの3つの要素は、行動、気づき、受容である。このうちの「行動」に踏み切れないという人は多い。その理由を聞いてみると、どうやら、何か「目的」がなければ行動しないという心性の中にあるようだ。

何か目的がなければ行動できないというのでは困る。もともと、セレンディピティとは、Aという目的で行動していたのが、Bという偶然の幸運に出会ってしまうのである。つまり、Aは「当て馬」のようなものであって、要するに何でもいい。何でもいいから行動しているうちに出会うのだ。

私たちは、そもそも、「行動」の意味を軽視しすぎているのかもしれない。「目的」といった「上位概念」の方が大切だと思っているのだ。しかし、実際には、外部から見てわかるのは「行動」のみ。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい。これが行動主義。偶然の幸運は、行動から生まれる。

講演の際などに小学校や幼稚園、保育園を訪問すると面白いことがある。子どもたちの年齢が下がるほど、その場の「文脈」や「目的」とは関係のないノイズ的行動が増えていくのだ。先日も、幼稚園でドッヂボールをやっているところを見たが、待っている少しの間にうろうろふらふらしている。

子どもははつらつとして発展の可能性に満ちているが、それは、目的や文脈から逸脱してしまう「ムダ」な行動に支えられている。ところが、分別のある「大人」になると、目的以外の無駄な行動をしなくなってしまう。結果としてつまらない日常になり、出会いもなくなってしまうのだ。

もちろん、目的がない行動ばかりしていると不安だし、実際に仕事や人生がはかどらないということもあるかもしれない。そこで、ある割合を決めれば良い。たとえば、8割は目的のある行動をして、あとの2割は目的外の振るまいをする。3Mやグーグルのように制度化している企業もある。

ここでの課題は、「学級委員」的な世間の雰囲気をうまくかわすことである。なにかやる時には「目的」を明らかにせよとか、今後一年間の「目標」を言えとか、何割目標を達成できたか報告しろとか、そのようなかたくるしい風潮が行き過ぎると、セレンディピティを殺すことになる。

会社での人事の(自己)評価などでも、セレンディピティの項目を公式化すべきだろう。「年間目標は達成できたか」というような評価以外に、「出会ったセレンディピティは何か」「どうやって気づけたか」「それを、受容することができたか」という項目を設ければ、ずいぶん風通しがよくなる。

セレンディピティとは、思わず吹く風。世間が沈滞して、風がないときには、自分で動いて風を起こせばよい。どんなに無風の環境でも、動きさえすれば風が吹く。遠くへと誘う、心をざわざわさせる風が。行動するのに、目的はいらない。とにかく、身体を動かして、世間と出会えばいいのだ。

連続ツイート760回「行動するのに、目的はいらない。」



行動なんてなかなかできるもんじゃないですよね。僕は行動できない時、やってた事がありました。今も基本的にはそうなんですが、"流れている川に飛び込む"事を意識しています。

つまり、周りに流されるという事です。

普通、自分の考えをしっかり持たないとダメとか軸がどうとか色々言いますが、そんなもんは年重ねてからでいいと思います。全然経験無いんだし、足りないんだから、周りにどんどん流されればいい。

普段なら、引越しの作業なんてやらないのに、友達に「手伝って」って言われたら即答で「やる!」っていう。別にその作業自体から何かうまれるかはわからない。でも、やってみる事で何か気づいたり、何か閃いたり、友達とのコミュニケーションが密になったり、セレンディピティが起こる。

行動出来ない人はどんどん流されればいい。

パッと開いた所にイベントがあったら行ってみたらいい。それが難しいなら、とりあえず友達に誘われたら全て即答で受けてみればいい。

今までと全然違うことが起こり始めるから。

それがセレンディピティのきっかけになると思う。

周りに流されるのも悪くないんですよ。ちゃんと浮き輪用意して、自分の意志で飛び込むなら全然怖くない。

世の中を見ていると、生活していると、「なんでこういうのがないのかな?」というものに出会う事があります。

それを、多くの人が感じていれば、形にすればヒットしますし、誰も求めていなければ、全然ヒットしません。でも誰もがこれは便利だと思うはずなのに無いものも、たくさんありますよね。

なんでないんだろう?って考えてみる。そうすると、できない理由とかやらない理由が色々出てきます。

だけど、ニーズはあると。

そんな時どうするか?

僕はやります。できない理由、やらない理由があるなら、尚更やる。人がやらないことをやらないと面白くないし。明らかにニーズがあるのわかってるならやった方がいいでしょう。

ニーズがあるのにそれでもやらないっていう事は、それなりの理由があるはずです。

でも今の時代、その理由は本当にできない理由なのか?と問いかけて、ぶち壊すことだってできると思います。最短距離で解決するのはもしかしたら難しいかもしれない。でも、間にひとつかふたつ、何かを挟む事で簡単に出来たりします。

世の中がやらない理由を明らかにしてから、あえてやる。いいですよねぇそういう気概。僕はそんな感じでいつもやってます。

この記事、おもろいっす。
コミュニティサービスの本質ってどこにある?――はてな・元CTO伊藤直也氏がゲストの「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」第8回
今までイノベーションって形の無い、捉えがたい、何がイノベーション?って全然答えられないというか、言葉にならない感じだったけど、これ見てすっかり腑に落ちました。

イノベーションって誰でも起こせるんじゃ?と思った次第。

自分のこれまでの経験も間違ってなかった所などわかったりして、非常に興奮した動画でした。
下の方にある日本語での動画、必見です。

ビジネスデザイナーZIBA濱口秀司さん のシンプルな図解とフレームワーク

いやー、イノベーションの定義がわかりやすくてとっかかりやすいから、やりやすいね。