
『まねっこでいいから』内田麟太郎 作より
昨日は 写真の本をはじめとする
大人のための読み聞かせ講演会を
主催させていただきました。
40名弱の方にお越しいただき
それはそれは素晴らしい時間を
過ごしました。
語りとピアノの調べは
どちらもお喋りをしているようで
講師の先生とピアニストの先生との
深く優しいお話を聴いているような
そんな気持ちになりました。
その講演会の中で
渡辺和子さんの著書
『置かれた場所で咲きなさい』の一部が
紹介されました。
このタイトルこそが
私のお伝えしている
『在り方』を表現する
素晴らしい言葉だと感じたのですが
さらに ご紹介くださった一文に
まさに‼ と感動を覚えました。
ただ メモした紙が見当たらず
私の解釈入りのご紹介になりますが
渡辺先生は
『環境に牛耳られて生きることの愚かさ』
そんな事を書かれたヶ所があったのです。
まさにタイトルとリンクしますね。
私たちは、長い歴史の中で
当たり前すぎて
気付くことさえなかった または
気付いたけれど そこから先を
本質から変えられずに生きてきた
その事への
大きな大きな投げ掛けが隠された
素晴らしい文章に感じられたのです。
私たちは 普段 私を生きていると
疑うことなく生きています
しかし 本当に私を生きている人は
極々わずかです。
それは 私でいながら
人生の全ての選択権を
環境(自分以外の他者)に明け渡して
いるからです
これをやっていいのだろうか?
この思いには 誰かから見られた場合
どう見られるか?どう感じられるか?
環境の視線に怯えながら
その視線に受け入れられることをする
そんな意識が垣間見られます。
しかし 目覚めた人
自分を生きている人は
その視線は感じていないのです。
私が私で 在る ために
その『在り方』を
ただただ シンプルに 追求し
表現しているに 他ならないのです。
目の前に ゴミが落ちてたとき
それを見つけたと同時に
すでに拾う行動を起こしてる人
周りを見てから
拾う または スルー する人
文句だけ言って 拾わない人
そんな違いなんです。
これは 聖書の
『善きサマリア人』のヶ所に
通ずる話だと
私は 思っています
どれを選択しても 構わないのです
善き人に なる必要は どこにもないのです
ただ 私は
目の前に ゴミが落ちていたら
拾える人で在りたいし
目の前に 倒れている人がいたら
手を差し伸べられる人で
在りたい だけなのです…
あなたは どう在りたいですか?
また 今 どう 在りますか?
一度 じっくりと
皆さんの 行動 それも無意識にしている
行動に、意識を向けてみると
いいかもしれませんね(^_-)