『心療内科とターミナルケアの臨床を通じて見たスピリチュアリティーの発現:自己矛盾の解消と個性化』
医療法人 聖岡会 新逗子クリニック 石川眞樹夫
私は、一人一人の人間が「自己矛盾を抱えない個性的なありかた」を実現し、自分の人生を主体として生きる事こそが、誰にとっても最も望ましい生き方であると考えている。そして、そのような生き方を可能にする隠された力が、Spiritと呼ばれる人間存在のレベルにある事を、心療内科とターミナルケアの臨床を通じて確信するに至った。
スピリチュアリティーとは何か、その事自体まだ定義されていないが、私にとって「良い意味でスピリチュアルな状態」とは、人間の在るべき姿を示唆する状態であり、現実に即して言えば、「より完全な健康を回復する力が個人を通して発現している状態」と言える。「個性化を推進する力が十分に発現している状態」と言う事も可能で、人が病気になると言う事の背後には常にこの『病気というプロセスを通じて真の健康を回復しようとする』スピリチュアルな力が大きく働いている。
私はバッチフラワーレメディーという、感情を指標として用いる花の治療薬を心療内科で使用する中で、すべての疾患が「その人らしさ」からの逸脱に由来していることに気がついた。同時に、患者さんの回復経過の観察から、自分をみつめることで感情と精神を浄化して「自分らしさ」を取り戻した人が、内側から「輝き出す」事にも気がついた。単純に「笑顔が増えるので明るくみえる」と言い換えても良いのだが、彼らは、笑っていなくても以前よりも輝いて見える。私にとっては、そのような「輝く回復」こそが真の「人間性の回復」であり「良きスピリチュアリティーの実現」であると感じられる。
私は、医者として患者さんの病(やまい)が癒える時には大きな喜びを感じる。そしてその病を引き起こしていた、その人の内側と、その人の周囲(環境)に存在した「矛盾」が解消され、苦悩が消え去る事を見る時には、そのような「矛盾の解消」、「苦悩の消失の促進」こそが、私たち人間の責務だと感じられる。だからこそ私は、奇跡の治療薬であるバッチフラワーレメディーが引き起こす浄化、昇華のプロセスを見つめ、そこから多くを学ぼうと志向し、バッチフラワーレメディーについての考察とその使用経験から、個人の表面意識を超えた「Spirit」が個人を変えるプロセスを学んだ。
この個人の変容がどのようにして生じるか、またその結果、1人1人が具体的にどう変わったかを『スピリチュアリティーの発現による個性化プロセスの推進過程』として報告し、このプロセスの解説を通じて、スピリチュアリティーというものを間接的に描写する事としたい。
(私にとってはスピリチュアリティーという言葉よりも「霊性」という言葉のほうが幾分馴染み深いのだが、私が「霊性」と言う時、この単語は、「人間の構成要素の核心」を指し、『「肉体」「感情」「悟性」を超えた人間存在の本質であり基盤である何者か』を指す。一般用語ではないが、ルドルフシュタイナーが「精神(Geist)」と呼んだものが私の理解する「霊性」に極めて近い。シュタイナーの精神科学(アントロポゾフィー)に言及すると、文献学的考察も含め、それだけで「Geist」の研究書が数冊は書けると思うが、今回はその迷路には立ち入らず、出来る限り私個人の経験と考察から理解、把握した事を述べる。ただ、その解説を行う際に、アントロポゾフィーの用語が妥当な意味範囲を指し示すと思われる場合にはアントロポゾフィーで使用されている用語も使用する。)
私は臨床医としての仕事を通じて、人間が健康でいるためには、スムーズなエネルギーの取り込みと、その燃焼、そして排泄が必要であり、潤滑な同化と異化が行われ続ける必要があるという当然の事実に気がついた。具体的には、ターミナルケアを通じて「人間は、人間として本来果たすべき役割を果たし尽くした時に(燃やし尽くすべきものを燃やし尽くした時、あるいは、歩むべき道をきちんと歩み終えた時に)平安を見いだす」という事を学んだ。
私たちの肉体の臓器や器官は、それぞれの役割を存分に果たし続ける間だけ健康に維持される。臨床的な観察によれば、使われなくなった器官は早晩健康な状態から逸脱し、ついには病を生じる事になる。(この実際の例は、母乳を与える機会が少なかった乳房に発生する乳癌、出産が少ない人に生じやすい子宮体癌、射精回数が減った人に多発する前立腺癌などに理解しやすい姿を現している。)その視点から見た時、病とは場違いな時期に、場違いの臓器で生じた、ある意味では「旺盛な」生命活動の結果であるとも言える。
私はこの9年来、神奈川県逗子市で入院設備をもたない医院の院長として、外来と往診診察を主な仕事としてきたが、その中で何人もの「とっくに死んでいておかしくない病気なのに、いつまでも元気な老人達」に出会った。この老人達に共通するいくつかの特徴を理解した事が、私にとって「良きスピリチュアリティーの実現とは?」という質問への答えを見いだすヒントになった。そのような老人に出会い、それらの人々の性格や生活上の特徴をどのように理解したか、また、これまでの私の人生における体験から何を学んだかを以下に記す。
私はかつて埼玉県上尾市にある上尾甦生病院という病院のホスピスに勤務した経験がある。このホスピスは日本で7番目に設立されたホスピスで、熱心な婦長さんと、優秀なソーシャルワーカーに恵まれ、またスピリチュアルケアにも熱心な良いホスピスであった。けれども、私はこのホスピスにあっても多くの患者さんが肉体的にはまだしも、精神的には最後まで、なかなかの苦しみを抱えて旅立ってゆく事を間近に見た。それと同時に、患者さんの半数以上が、どんなに死が間近でも、苦しみなく過ごせるなら、一時でも自宅に戻って家族とともに穏やかに過ごしたいと願う事も知った。
その経験から、私は逗子の町医者になって以来、どのような病気を抱えても少しでも長く自宅で過ごしたいと願う患者さんの希望を叶えるべく、特にガンの患者さんに対しては「私がいつでも駆けつけます」と約束して、在宅でのターミナルケアを心がけて来た。最初は、一般の病院で「もう出来る治療はない」と診断された患者さんの看取りを、できればご自宅で、ご家族とともにしたいという意図で『病院からの紹介を引き受けます、ターミナルケアもさせて頂きます』というスタンスでこの仕事を開始したのだが、逗子に住んで5年、6年と過ぎる内に、外来で血圧の管理や糖尿病の管理などをさせて頂いていたかかりつけの患者さんの中に、かなりの頻度で食道癌、胃癌、大腸癌、肺ガンなどの診断を受ける患者さんが現れて来た。
(この背景には、私が逗子で引き継ぎ開業した医院が私の代で4代目になる医院で『嫁に来てからもう60年以上こちらの医院に通院しています』というような高齢の患者さんが最初から多数おられたという事情がある。)
そして、そのような患者さんが希望される事はいつも大体同じで、「石川先生、私が先代の西川先生から石川先生に院長が替わられてからもこちらの医院に通院させて頂いて来たのは、石川先生が往診もなさるので、石川先生が居れば、死ぬ時は自宅の畳の上で先生に見送ってもらえると思ったからです。ですから、癌になったからと言って、私に手術を勧めたり入院を勧めたりはしないで、どうか最後まで先生が主治医として見送って下さい。」という事だ。
70代、80代、時に90代のご高齢の方々に、このように言って頂いては、医者としてとても嫌とは言えない。ましてや、私はホスピス以外の一般病院で手術、放射線療法、抗がん剤のフルコースをたどる患者さんの先行きも良く知っている。私は、手術や入院を勧める医者の気持も理解は出来るが、結局は「ありがとうございます、何とか力を尽くしてみますから出来る限り自宅療養でご家族といっしょにがんばってみましょう」とお答えして、頻繁に往診をしながら、自宅でお見送りをさせて頂くのである。
私が「病気を通じて個人の真の霊性が実現され得る」というビジョンを得たのは、ここから先の臨床経験による。
往診在宅ターミナルケアを開始した当初は、病院から紹介された患者さんにも、自分の医院の外来から在宅療養に転じた患者さんにも、かつて自分がホスピスで行ってきた消炎鎮痛剤の使用、ステロイドの使用、モルヒネの使用や点滴などを病院時代と同じように行い、いわゆる「緩和ケア」と呼ばれる対症療法を行っていた。しかし、在宅ケアの経験を重ねるにしたがって、(ホスピスにおけると同じく)これらの処置が患者さんの本当の苦痛を取り除くためにはあまり役に立たないと感じるようになった。そして、ついには、これらの病院の延長のような処置こそが彼ら、彼女らを呪縛し、苦しめ続けている大きな要素であると私は気がついた。
私はここで、私に上述の気づきを与えてくれた、「最初の在宅での看取り」、「膵臓ガンで亡くなった御婦人」、「肺ガンで亡くなった内科医」、の3人の患者さんの簡単な経過を述べたい。
私が、逗子で最初に往診を引き受けた患者さんは、末期の肺ガンの患者さんだった。他の病院で手遅れとの診断を受けて、「自宅で過ごせる間は少しでも自宅で療養して来て下さい」というような説明を受けてご自宅に戻られた80代の男性患者さんであった。初めてご自宅に伺った時には胸水も貯まっており、ようやく伝い歩きが出来る状態で、お粥と水分を少しだけ口に出来る状態だった。私が過去に呼吸器内科の病棟とホスピスで拝見した胸水が貯まった肺ガン末期の患者さんの多くは呼吸困難と胸の痛みに苦しみ、その呼吸困難の苦痛の中で同時に死への恐怖と戦っていた。しかし、その時私が往診させて頂いた逗子の患者さんは、軽い息切れはあったものの、幸い激しい痛みはなく、ただ精神的、肉体的に疲労と不安をかかえている状態だった。私は、臨床の場では、この患者さんに最初にバッチフラワーレメディーをお勧めしたのだが、その結果、この男性は再入院もせず、また最終末期に出現した口腔カンジダ症も、薬を使わずに消失し、大変安らかに自宅で旅立つ事が出来た。
実はこの患者さんの往診を引き受けた時、私はまだ都内に在住しており、ご家族には「緊急時には以前入院していた病院に連絡して再入院させて頂いて下さい」とお願いしてあった。そんな事情もあり、この患者さんは私の在宅ターミナルケアの初期の患者さんだったが、私はモルヒネを使用したり、強い鎮静剤、鎮痛剤を使用したりせず、『ほとんどバッチフラワーレメディーだけ』 で対処したのである。そして、彼の旅立ちはとても安らかであった。
その後、私は先に述べたように何人もの在宅ターミナルケアに取り組んだのだが、ほとんどの患者さんにモルヒネの注射を使用した。ホスピスでの経験からすればそれは当然のことだった。けれども彼らは多くの場合最後まで精神的、情緒的葛藤を抱え続けているように思われた。
そんな中で、私はレメディーが大変有効な助けとなって、腹水が多量に貯まった最後の経過の中でも、『モルヒネを使用せずにほぼレメディーだけで対処出来た』 末期膵臓癌の患者さんを看させて頂いた。(この患者さんの詳細な経過については、2003年6月にバッチホリスティック研究会が刊行した「バッチフラワーの癒し:日本での実践例と可能性」に詳しく報告した。)
そしてその膵臓癌の患者さんをお見送りした2年程後に、私は『モルヒネを最後まで使用し、同時にバッチフラワーレメディーを使用した』 ものの、最後まで精神的苦痛も肉体的苦痛もあまり軽減されなかった、進行肺ガンの80歳のお医者さんを見送った。
この肺ガン患者さんの苦悩の経過は、私に一つの洞察を与えた。彼は自分自身が医者であるゆえに呼吸困難に陥る事に対する大きな恐怖心があった。その恐怖の印象は、彼の友人であったある医師が、人工呼吸を受けながら大変苦しんで死んで行ったのを、彼自身が目の当りにしたためであった。そしてまた、彼は医者としての常識的な知識から、「自分がガンの骨転移でおおいに痛みに悩まされるだろう」という確信と、「自分の疾患が決して改善せずに早晩死に至るだろう」という確信をともに抱いていた。私は、彼の死に至るまでの苦しみと彼の痛みの経過をつぶさにみたが、彼の苦しみのほとんどすべては、実は彼の肉体の状態に由来するのではなく、彼の確信に由来している事を確認した。(例えば、彼が最後期に訴えた痛みはレントゲンで確認されていた彼の骨転移の部位とは、全く一致しない場所に現れていた。)
私はここに述べた3人を見送った過程と、その他の患者さんを拝見した経験から、『人は自分で作った幻によって自分自身を苦しめている。そして、全ての恐怖は、ついには肉体的レベルでの疾患や症状に結実し得るが、もしその恐怖を手放す事が出来れば多くの症状は軽減消失し得る』と理解した。そして恐怖心を手放すことさえできれば、当然の事として、疾患からの回復の可能性、回復の確率は高くなる。
私はもう一つの観察経験をここで述べたい。
それは、重病から回復した患者さんや、いつも元気な患者さん、「とっくに死んでいておかしくない病気なのに、いつまでも元気な老人達」と私が述べた患者さんや、「親のために病気になる子ども達」の事だ。
その観察経験は町医者として、何年間にもわたって一人一人の患者さんの人生や生活を、彼らの日常生活の近くでみさせて頂く事が出来た故に得られたものである。
私は、患者さんが大きな出血を経験した後や、子供が発熱したあと、あるいは手術で比較的進行した腫瘍などが切除された後に、それらの患者さんが、病気を経過する以前よりも明らかに健康的かつ穏やかになり、塵細な風邪や情緒不安定を経験しにくくなる場合がある事に気がついた。この事実は、病気が同時に毒素の排泄(それぞれの個人内部において過剰になっているものの排出)になっていて、疾患即回復であるという可能性を強く示唆する。
平行して気がついた事として、外来で長く健康状態が良好で風邪も引かない患者さん(具体的には高血圧などで何年も通院しながら、自分で血圧も測定しており、診察はごくたまにしか受けないような患者さん)が、「扱いにくい患者さん」や「わがままな患者さん」に多いという事がある。これら、医療機関側からみて「我がまま」だとか「扱いにくい」という評価を受ける患者さんというのは、彼らの立場に立って考えれば、単に自分の肉体の健康に過剰な注意を払わずに、自分の楽しみを常に優先している人に過ぎない。彼らは、言わば「楽しみ」という炎を煌煌と燃やしており、その喜びの熱の中には「彼ららしさ」が染みわたっている。そして、そのような状態の人には、風邪などはほとんど入り込めない様子である。
もちろん、彼らも病院に通院している以上、現代の医学的判断の範囲内では、何らかの形で標準的範囲からの偏位を示す身体状況を持ってはいるのだが、楽しい事に一生懸命で少々血圧が上昇しているような状態では、過食もなく、便秘もなく、(良く燃やしているために)体に毒がたまる事もほとんどない。そして、彼らの多くは、忙しそうにしていても、彼らなりにリンパ球と顆粒球のバランスや、睡眠と活動のバランスがとれていて、ほとんどいつも自分に満足している。私は、この事に気がついてから、患者さんに『自分にとって本当に大切だと思えることを優先する「我がまま」を身につけましょう』とお話ししている。
野口整体と呼ばれる整体の技法を提唱した野口晴哉先生という方は、「風邪の効用」という大変すばらしい書物を書いており、その本の中で野口氏は繰り返し「上手に風邪を経過させることが大切である」「風邪は自然に経過するものである」という事を述べている。この事は実はほとんど万病に対して言う事が出来ると私は感じる。つまり、すべての病はそれなりの経過のさせ方があると言えるのだ。そして、各人毎のそれぞれの疾患について、それを「どう経過させるのが妥当か」を理解するための基準となる視点を、上に述べた2つの臨床的観察、「人は葛藤(自己矛盾)が存在する故に苦しむ」という観察と、「人は自分らしくあることにより強められる」という観察が与えてくれた。つまり、臨床的に回復する人々の観察から、私は
1 )『それぞれの疾患は、その疾患を引き起こした、あるいは悪化させている、陰陽のバランスの乱れ(矛盾、葛藤)を整えれば治る』
2 )『陰陽の乱れがバランスされた時(自己矛盾が解消された時)に出現するものであり、それ自身が矛盾を解消させる力となるものが、「その人のその人らしさ」である』
以上2つの視点を得たのである。
私たちは自分らしく在る為に生きている。『自分であること』『自己一致した状態にとどまる事』これは、「陰陽のバランス、活動と安静のバランスを保つ事」とともに、健康であるために最も大切な要素である。
言うまでもなく、たとえば進行ガンなどの重い病気になった人は、それまでの人生のペースや環境から切り離されざるを得なくなり、立ち止まらずにはおられない状況に陥る。そして、命の瀬戸際となれば、大半の人にとっては、自分にとって何が本当に大切なのかを問わずにはおられない。かくして、病は私たちが自分に向き合い、人生を捉えなおす重要なチャンスとなる。
これらの原則に気がついた事が、私の医者人生の転換点となった。
(この時の理解を、私は平成15年夏に日本プライマリケア学会で「電子カルテの有用性 インフォームドセルフチョイスを実現するツールとして」 として、また第二回バッチフラワーコンフェランスで「無境界へのみちしるべ」 として発表した。これらの発表内容は現在、私の医院のホームページと、バッチフラワーレメディーをネットで販売したおられる木下直子さんの「ムースハウス」のホームページ(http://www.as-pln.com/ )で読むことが出来る。)← 今はリンクが切れているようです。お読みになりたい方は、石川の個人メールアドレス、maria2418mark@gmail.com宛てにご連絡ください。時間がかかると思いますが、メール添付でテキストをお送りします。このテキストの内容は、全ての臨床医や治療家の方に役立つ内容だと、今でも思っています。2021年2月21日追記。
以上の経験と気づきゆえに、私は対症療法に専念する普通の医者である事を止め、今は、病気という陣痛をとおして生まれ出ようとしている患者さんの「隠された願い」 を患者さん自身が認識出来るように、バッチフラワーレメディーを通じて援助しています。← この外来診察のスタンスは今も全く同じです。2021年2月21日追記。
私は「病の真実」が、実は『 場違いな時期に、場違いの臓器で生じた、ある意味では「旺盛な」生命活動の結果である』 とも述べたが、それはこの世界で悪いものと見なされている事が、実は良い事であり得るという、驚くべき事実の一部である。この事は、どんなに強調されても強調されすぎる事はない。人は弱いから病気になるのではなく、その臓器、あるいはその個人に、病気を作るだけの強さがあるから、病気になるのだ。
具体的に言えば、例えば幼い子供の病気のほとんどが、両親の苦しみを軽減するために生じているという事実がある。分かりやすい例としては、両親が夫婦喧嘩をするたびに喘息発作を生じたり、怪我をしたりして、両親が離婚する事を防ぎ、同時に子供の看病に意識と努力を傾けざるを得ないように親を導く事で親の内側から愛情の力を引き出す子供の存在がある。狭小な意識の親からみれば、そのような子供は、弱く、厄介な存在にさえ見えるだろう、けれども、胎児記憶や天国での記憶を持った子供たちの証言に耳を傾ければ分かることだが、その子たちは、そんな困難な状況の家庭を、いわば敢えて選んで生まれてきているのだ。
ここには一つの調和がある。子供たちは常にその苦しみの中で自分自身をも浄化している。その意味では世に言う「因果応報的カルマ論」も正しいようにみえる。しかし論理的に考察した場合、私たちは自分の選択によって準備し、いわば自ら用意した環境の中に再受肉すると予測されるので、これらの事柄を適切に理解しつつ、自分自身のありかたと環境との相互作用に目覚めた生き方を選ぶ事が出来れば、人は必ずしも個人の選択を遥かに超えた、どうにもならない「運命」に闇雲に従わざるを得ない訳ではない。問題は、バッチ博士が「ハイアーセルフ」と呼んだ言わば宇宙的な意思に気づく事が出来るかどうかにある。
「病の真実」についてもう少し述べよう。ここまで、私が述べた事柄を理解出来る認識力を持つ人は、この世界で生じている人間の不幸や苦しみというものが、実はその苦しみを苦しんでいる個人や、不幸の中にある個人だけの問題で生じているのではないと言う事もまた、知る事ができる。つまり、苦悩の中にある人々は、ある意味では人類の苦しみを苦しみ、不幸を担っているとも言えるのだ。それは、丁度マザーテレサが、「私がこの年齢になっても世界中を飛び回って神様のために仕える事が出来ているのは、私の代わりに苦しみを担ってくれている魂の姉妹である○○さんのお陰です」と語った事柄に相当する。私たちはこの地上ではいわば命のネットワークの一部であり、特に命と命の間では、しばしば直接的とも呼べるエネルギーと情報の交換が行われている。社会全体における犯罪発生率の上昇、子供たちの重い病気や精神的混乱の増加などは、すべて社会全体が言わば病んでいる事の印である。丁度個人における湿疹の頻発や、下痢の反復、あるいは皮膚のイボの発生、消化管での腫瘍形成、消化管からの出血などが、個人の生活の中でその人間の本来の性質に相応しくない入力が持続している、あるいは必要な燃焼や排泄が行われていない、と言う事を示しているように、犯罪や精神病の増加は人間の社会が人間の社会としてのあるべき機能を果たしていない事を示しているのだ。
『いずみの会』という末期癌の患者会がある。健康と回復を理解しようと思う者にとって、この会の活動は非常に重要な示唆に富んでいる。この患者会は胃癌を克服した名古屋の電気会社社長 中山武さんが会長を勤める患者会で、会長の中山さんは、2003年の第二回バッチフラワーコンフェランスでは、私とともに特別講師の一人として講演をした。私はそれ以来のおつきあいだが、その中山さんが「論より証拠のガン克服術」という書物を2004年に出版している。
私は臨床医であり、優れた100の論文よりも実効のある1事実のほうが真実により近いと感じるし、たとえ1つの事実でも明らかな有為差がある現象なら考察に値すると思っている。百聞は一見にしかずと言っても良い。その立場で見て、本当に「自らの選択によって回復し、治った人」の典型が中山武さんであり、またいずみの会でガンを克服している会員さんたちだ。かれらは、医者が逆立ちしても、100人雁首付き合わせても治せない進行ガンを、「心の改善(転換)」「食事の改善」「運動(歩くこと)」のたった3つを柱にして治している。私は、かれらの活動と実際の改善を目の当りにした時、そこに存在する改善のプロセスがレメディーによる患者さんの改善と全く同じものだと気づいた。3つの柱を実行する時、彼らの中からは自分で生きる力と光が輝き出すようになる。彼らはまず医者と病院を捨てることで、自分で治すこと、自分の人生を最後まで自分の責任で生きる決意する。その大きな転換がかれらの中から強い光として輝き出す。そして、その時から、彼らにとって、医者や看護婦が象牙の塔の中で常識として振り回している「ガンは不治の病だ」などというペシミズムは、その影響力を失う。食事の改善は、自動車でいえば、混ぜ物入りの安価なガソリンから燃焼添加剤入のハイオクタンガソリンに燃料を変更するようなものだ。そして、歩く事は、実際にそのガソリンを使って、まだ動くエンジンを存分に動かす事になる。
自家用車を運転する人は、ガソリンスタンドなどでエンジンオイルの交換をした事があると思うが、スタンドでは、エンジンの内部にこびりついた汚れを取り去る為にフラッシングと呼ばれる空回しを行う。具体的にはフラッシング剤という添加剤をエンジンオイルに添加して、一定の時間アイドリングよりもいくらか高い回転数でエンジンを回し続ける。その間にオイルに添加されたフラッシング剤はエンジンの隅々を潤しながらこびりついた汚れを洗い流す。
健康を回復し、維持する目的で、しばしば『穀物と野菜を中心とした食事』が提唱されるが、いずみの会を例にとれば、ガンを治そうと意志するなら、最低3年はほぼ完全な玄米菜食にする必要があると中山さんは語っている。この3年間の玄米菜食の期間は、いってみれば、ガソリンスタンドで行うエンジンフラッシングに相当するだろうと私は考えている。
次に『バッチフラワーレメディーに関連して確認した事柄』を述べたい。私が提示する以下の理解は、私が臨床医であり同時にバッチフラワーのプラクティショナーであるという立場から『病気の意味』と『感情の意味』を追求した時に、その理解の助けとなった世界認識の方法の一つであり、『病気』と『感情』はその意味を徹底して追求すると、スピリチュアリティー(霊性)が個性を通してこの世界に発現しようとするプロセスの一部だと理解出来る。
『バッチフラワーレメディーに関連して確認した事柄』という言葉は、3重の意味を持っている。
1つには私自身がレメディーを服用して自分の中での変化を観察し、同時に変化する事によって活性化された認識力を用いることで理解し把握した事があると言うこと。
2つ目には、患者さんにレメディーを服用して頂いて、彼女、彼らの変化のプロセスから、レメディーがどのように作用し、人がどのようにして回復して行くかを理解出来たということ。
3つ目には、バッチフラワーレメディーそのものが「人間の感情」を霊的な世界に結びつけるように作用する事を観察し、また、そのレメディーが如何に作用してそれを可能にするかを考察して、認識出来た事がある、ということである。
順番が前後するが、最初にバッチフラワーレメディーの作用機序について説明する。
西洋薬による対症療法が、それだけでは全く『病の真実』にそぐわない治療法であると気がついたと同時に、私は自分が9年来用いてきたバッチフラワーレメディーの真実にも気がついた。つまり、レメディーは私たちの個性を通して「真実の自己」を輝き出させる手助けをすると言う事に気がついたのである。バッチフラワーセラピーで「タマネギの皮むき」と呼ばれるプロセスを通じて、私たちはより統合された自己を実現し、真の個性を発揮出来るようになる。
私が、「レメディーが人間の感情を霊的な世界に結びつける」と説明した、そのバッチフラワーレメディーの作用機序は、アントロポゾフィーの認識の仕方をバッチフラワーレメディーに対して適応する事で見いだしたもので、レメディーが私たちの個性の輝きを強めるのは、私たちの魂の輝きを遮る「自己矛盾」に由来する混乱した感情エネルギー(陰陽のバランスの乱れ)を、バッチフラワーが、「否定的な感情を昇華させる」という形で消し去る事による。
例えば、ホリーというレメディー。ホリーは憎しみや怒りを愛に変化させると言われる。このレメディーはクリスマスの飾りとして有名なセイヨウヒイラギ(クリスマスホーリー)の花から作られる。この木は普通は低木で、縁に刺のある葉をもち、4月から5月ごろ白い小さな花を咲かせて、11月頃には球形の赤い実をつけて、クリスマスの飾りとして用いられることで知られている。さて、このホリーという植物は自然界の中でいったい何をしているのか? (ここから先の洞察はアントロポゾフィー的植物観察によるのだが、)簡潔にいうなら、ホリーは、愛と恐れ、愛と憎しみの葛藤を克服し、それらの力の変容された姿として花を咲かせているのだ。つまり、ホリーは、大地から土の要素と水を吸い上げ、その刺のある葉に象徴される愛と憎しみの葛藤を、葉に受ける光と風の中でプロセスして、ついに熱とも呼ぶべき花として咲かせている。ここには地水風火の四大元素の錬金術があり、憎しみ怒りの象徴ともなり得る「葉」(感情的要素)が、愛という「花」(霊的要素)に転換されるプロセスが隠されているのだ。
アントロポゾフィーでは、「本来、人間は自然全体から生まれ、そしてみずからの内部に自然全体を担っている」とみる。逆に言えば、ホリーに認められる植物プロセスは、本来すべての人間に備わっている「憎しみを愛に変容させる能力」の集約された姿であり、その情報(霊的な姿)なのだ。そして、植物の種がその小さな姿の内側に将来の大木のすべての潜在的な情報を備えているのと同じように、植物の花は、その花が形成されるまでの植物全体のプロセスの結晶であり、したがって、その花から抽出された情報というのは、ホリーという植物がその花を形成するために経過した、憎しみや怒りを愛に変えるプロセスを伝える。これがバッチフラワーレメディーの作用機序の一つの説明である。人は、「憎しみから生まれた愛」をレメディーという形で知ることによって、自らの内にある憎しみから愛を生みだすことができるように変容するのである。
次に、私の個人的な経験について述べたい。
私は人生の転換点において、ほぼ必ず事故や病気を経験してきた。20歳の時には交通事故に遭って九死に一生を得た。またしばしば長引く気管支炎や、気胸を経験した。何度かはこれらの疾患によって勤務が中断される事にもなった。そして、このような経験を何度か繰り返してからは、咳や気胸という疾患をオーバーワークに対する警告として受け取り、仕事のペースを落として休養を取るように心がけた。結局30歳までを勤務医として過ごしたのだが、診療所の院長になったその30歳までに私は10回の入院を経験している。
30歳以後、私は診療所の院長となり、徐々に自分のやり方で仕事をする事が出来るようになり、肉体的には大きな病気は経験しなくなったが、30歳から40歳の10年間は、私が自分の内部に抱えていた大きな自己矛盾に、個人的な人間関係を通して直面する事になった。
具体的には、最初の結婚を32歳で離婚という形で終わらせ、その後の10年間をパニック障害や、多重人格に近い症状を持つ何人かの女性とともに過ごした。彼女らは全員が幼児期に虐待を受けた経験をもち、成人してからは、友人や家族、自分の子供などに対し、しばしば自分が行う虐待行動を抑える事が出来ないという問題を抱えて苦しんでいた。また自分自身に対しても、アルコールや薬物への依存、中絶手術の反復、離婚の反復など激しいアンビバレンツな行動を繰り返すことが止められない状況にあった。そして、彼女らは、ほぼ例外なく「(心霊的)過敏体質」を持っていた。
私が人生の一時を共有した彼女たちほどでないにしても、人間は誰もが自分の中に、自分の表面的な意志と矛盾する欲求や願望を抱いているものである。そして私は、私自身が離婚を選択した結果としての、苦しい心理状態をかかえつつ、助けられるものなら助けてあげたいと願いながら、どうする事もできない彼女らを見つめ続ける10年間を過ごした。
その経験から私が学び、気がついた事は、私や彼女たちが、自分の中に存在する複数の異なる衝動や考え方、あるいはエネルギーに突き動かされており、そのために現実の行動や思考が統一を欠いてしまっていると言う事だった。愛する対象への虐待と自傷的な行動パターンは、どちらも「自己矛盾」の極致であり、自分で自分をコントロール出来ない、自分で自分が解らない、といった状況もしばしば観察された。そして、その状況の主な由来は、生育歴を含めて理解すれば、私や彼女らの両親の「親としての(バランスの)混乱」にあるように思われた。ここにおいても、父親と母親の間での、またそれぞれの親の内部での陰陽のバランスの乱れと錯誤、矛盾を認めることが出来た。
繰り返しの説明になるが、患者さんにレメディーを服用して頂き、彼らの回復を見つめた時に理解出来た事を、もう一度述べておきたい。
患者さんが適切なレメディーを服用すると、彼らの内側からは、彼ら本来の個性の光が強く輝き出す。より詳しく述べると、彼らにとって苦しみの源になっていた否定的な感情という曇りが、レメディーの服用とともに急速に消え去り、丁度雲の切れ目から太陽が顔を現すように、患者さんには喜びとその人らしさが戻ってくるのだ。否定的な感情が意識の主要部分を占めている間は、各人の個性の光は、その雲に遮られて、曇りそのものにエネルギーを吸い取られてしまうように見える。ところが、レメディーを服用すると、その曇りは急速に消え去り、それまで混乱や苦しみを維持するために用いられていたエネルギーのすべてが、一定のベクトルに向かうようになる。そのベクトルは、「その人らしさを保ち、自分の足で自分の人生を生きるために全力を尽くす」という方向に向かって集約される。彼らのオーラは輝きを増し、彼らは過去に蓄積した矛盾する思考や情報の悪影響を受けにくくなる。また、未来に向かっては自分のための方角を自分で見いだす強さが保たれるようになり、他人の思惑や影響力、支配力に屈しなくなる。こうして患者さんの内と外の両方で、回復と自立への良き循環が始まるのである。
私は、以上に述べたような「診療所の外来と往診ターミナルケアでの経験」と主に心療内科での治療プロセスを通じて「バッチフラワーレメディーに関連して確認した事柄」から、『疾患や苦悩』は、霊性なるものが個人を通じて発現しようとする時、必然的に、必要かつ必然のプロセスとして出現する現象であり、そのプロセスは順調に経過された場合、最終的には隠されていた真の個性の現出、あるいは恐怖や怒りのゆえに潜在していた、個人の善良さの出現に結末する可能性が極めて高いと理解した。そして、このプロセスが経過された時に観察される個性は、多くの場合、「受容能力」「忍耐力」「平安」「穏やかさ」「喜び」「優しさ」「静けさ」「確信」「明晰さ」などの特性を示すと思われた。私の眼には彼らの顔と姿は例外なく「穏やかな明るい光」を発して輝いているように見える。このゆえに、私はスピリチュアリティー(霊性)とは光であると語りたいと思う。
以上が私の医者としての経験から見た霊性についての理解と見解である。不勉強のため、その相関関係について十分に述べる事は出来ないが、私が理解した「良きスピリチュアリティーの発現状態」というものは、強制収容所のような異常なストレス環境下で生き延びた人に認められる特性と一致すると推察される。文中で述べた「いずみの会」で末期癌を克服している人々が、ガンという疾患に対して「理解可能性」「処理可能性」「有意義性」の、A・アントノフスキーが述べたSOC(センスオブコヒアレンス)に関する3因子全域で、強い確信を持っていることは確かなことである。
私は、スピリチュアリティー尺度研究会の学際的研究が、今後、個人と社会におけるスピリチュアリティーの発現を適切に「経過させる」道を見いだすための一助となり、私たち一人一人が言わば「良きスピリチュアリティーの体現者」として生きるための手助けになるようにと祈るものである。
付記
私はこの数年来、講演などで病気の原因状況を説明するにあたり「陰陽のバランスの乱れ」という、多少文学的な表現を愛用しているが、同じ事が、新潟大学大学院教授 安保徹先生の『自律神経免疫療法』の理論において、「陰陽」は「リンパ球と顆粒球」または「副交感神経と交感神経」として、「自分らしさ」は「無理をしない生き方」という言葉で表現されていることを指摘しておきたい。
また、まだ日本では馴染みのない医学大系だが、アントロポゾフィー医学(シュタイナー医学)においては、「陰陽」は「エーテル体とアストラル体のバランス」として、「自分らしさ」は「自我機構の適切な関与」として表現されている。
同じ事は、易経の64卦において、下の卦(内卦)と上の卦(外卦)のバランスとしても表現されており、陰陽五行説を中心とする中国哲学が、極めて現実的かつ霊的な観察に基づいて構築されていたことを推察させる。