この人は「禹長春」
京セラの稲盛和夫の義父である
世界的に有名な種苗学者、韓国では教科書に載っているので、殆どの韓国人は知っている。韓国農業の父と言われている。キムチ用の白菜を改良したので、今、キムチを安心して食べられるのは禹長春博士のおかげだと言われている。

禹長春の母が死んだ時、李承晩大統領は日本に行かせると、韓国に帰って来ないのではないか?と疑って出国許可を出さなかった。
6歳の時、父を暗殺されて、母ひとり子ひとりで育った禹長春の心中はいかばかりであったろうか! 悲しみの禹長春のもとへ韓国全土から寄せられた香典が寄せられた、
集まった香典を、日本の家族には送らないで、水不足で悩む農場と近隣の人達が利用出来るようにと、井戸を掘った。
井戸の名前は「慈乳泉」。
慈愛深き母の泉、との意味を込めて名付けられた。
禹長春博士にとって亡き母の墓標だったのだろう、毎朝、掃き清めていたと云う。

開発されたF1種子の唐辛子

生活を豊かに過ごす為には、癒やしが必要なのでサボテンも栽培した
地上部は白菜、地中は大根の品種を研究した
地上部はトマト、地中は馬鈴薯の品種を研究した
主食と副菜が揃ったら、栄養のバランスの為に林檎、蜜柑、等の増産が必要
キムチに白菜が欠かせない!
禹長春博士はキムチの恩人と云われている
建設中の、母を偲ぶ井戸、慈乳泉、工事中。
帰国(渡韓)直前の家族写真
眼鏡の男性が禹長春博士、いちばん左は妻の小春、その右側に4女の朝子、後に稲盛和夫の妻と成る運命が待っている。
下の子は6才、上の娘たちは嫁に行く年頃になっている。禹長春も農場長として、安定した生活をおくっているのだ。
妻の小春は日本に残ることにした。国交も未だ無い韓国へ子ども達を連れて、一家で渡る事は出来なかった。日本で生まれて、日本で育った、禹長春はじめ全員が韓国語は分からないのだ!
それでも、韓国に渡る決意は
「帰りなんいざ、田園まさに荒れんとする、いずくんぞ、帰らざるや」
自分が韓国に渡って、農業を立て直してみせる、俺なら出来るのだ!
 (こんな気持ちだっただろう)
歓迎花束を持って釜山港へ上陸した禹長春博士
東京大学の博士号

入館は無料 
帰国当時の禹長春博士
ウ・ジャンチュン(禹長春)通りと書いた道路標識