古賀政男記念館(福岡県大川市)と柳川藩主立花邸「御花」


日本人の心、古賀メロディー

(明治37年〜昭和53年)享年73才。作品の一部=影を慕いて、酒は涙か溜息か、サーカスの唄、緑の地平線、東京ラプソディ、人生の並木道、悲しい酒、等 4000曲
柳川藩主大名庭園 (旧立花伯爵邸)のお庭 松濤園、10月〜4月は鴨がシベリアから飛んで来る
柳川藩初代、立花宗茂(1567-1642)豊臣秀吉から「東の本田忠勝、西の立花宗茂」と評された 
戦国末期、島津軍が九州を席巻した時、今の福岡市新宮町の立花山に立て籠もって時間を稼ぎ、鹿児島に引き上げる島津軍を追撃した
左の建物は「西洋館」右は大広間、お堀に囲まれた敷地は7000坪
柳川藩の金色の鉄兜、文禄・慶長の役では1000人がこの兜で渡海したが帰国出来なかった将兵が多かった
ソウルの郊外、碧蹄館の戦いでは明の大軍に立花宗茂は少数の兵で突撃して日本軍大勝の端緒をつくった
立花宗茂は関ヶ原の戦いでは西軍に味方して大津城を開城させるが敗軍となる 敗走する時「瀬田の唐橋」を燃やそうとする味方に、後日、民百姓が困るだけだからと燃やさせなかった
進軍してきた徳川家康がこれを聞いて立花宗茂を高く評価して
20年後柳川に返り咲いた 関ヶ原の戦いで敗れて旧領に復帰した唯一の大名だ
今、令和の時代 柳川家の当主は日本航空のパイロットだ
昭和20年中国東北部から敗走する日本軍はソ連軍の追撃を遅らす為に橋を落としてしまった 味方の女、子供、老人は目の前の川を渡れずに行き先を失って犠牲になる者が多かったと云う
民衆を犠牲にしてその後の繁栄は有るのだ