先日ラジオで初めて村上春樹さんの声を聞きました。
30年も前から本を読んでいた人の声を、30年経って初めて聞くというのは、文通相手の写真を初めて見るときのような(おそらくの例え 笑)なんか感慨深いものでした。
「うわー、そうだったのぉ~」って感じ。
ラジオの内容も流れた音楽もとてもよかったです。
話し方もかっこよかった。
なにより村上さんの選んで話す言葉がよかった。
やっぱりいーなぁと思いました。
純文学と呼ばれた彼の創る物語は、不思議な場面や不思議な登場人物がたくさん出て来て、物語の最後も不思議なまま終わることが多々あります。
なにについても丁寧な描写はあっても、説明があるわけじゃありません。
最初から最後まで、伝えたいことはあるけど“わからせようとはしない”という感じ。
おそらくそこが彼の創る物語が、まるで音楽が流れてるみたいだと言われる所以でしょうか。
すべてを自分で好きに感じていいわけです。
そのせいで彼の物語を読むと、ポーンと弾き飛ばされる感覚があります。
ある年代、私はそれがなんだか冷たく突き放されたように感じた記憶があります。
きっと、よくわからないということが受け入れられなかったのです。
わかりたいと思い過ぎると、その自我は、なにかが浸透してくるのを拒むんですよね。
若かったなぁと思います(笑)
今では、言葉にならない部分を昇華させてくれるのは、頭で理解できるものではないなと思っています。
昇華に必要なのは、きっとその反対のもの。
宮崎駿さんの作品も、ぜんぶ丁寧に説明されていないところが、人の気持ちをダイナミックに遠くへ運ぶ力を持つのだろうと思います。
整合性や辻褄、正論や因果関係。
ほぼみんなが納得する理論や証明では、人の気持ちは予想通りくらいしか動かせないのでしょうね。
想像もつかない、思いもよらないほどの作用が起きるのが、説明ができない、ただ不思議と感じる物語の力なんだろうと思います。
整合性を求め続ける現実的なこの世界で、わからせようとしないって勇気がいることです(笑)
でも結果、村上春樹さん、宮崎駿さん両者の作品は、世界中で受け入れられ、必要とされています。
頭で理解できなくても、きっと私たちのこころはとっくに知っています。
人は自然に音楽を聴き、物語に浸り、よく分かり得ないもの、スピリチュアルに繋がることを求めます。
知ってるから黙って触れたくなる、思い出したくなるのです。
そこは記憶のないふるさとです。
音楽や物語はそっとひとりでふるさとへ戻る乗り物です。
【お知らせ】
8月のモダナークギャラリーの日程です。
8月23日(木曜)
ご予約roxy.emiko@gmail.com
他の日は元町のカフェにて鑑定しています。
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