芥川龍之介の作品に「杜子春」という物語があります。
簡単にあらすじを書きます。
昔、中国に杜子春という男がおり、親の遺産で大金持ちだったのですが、散財し無一文になりました。
そのとき杜子春を助けてくれる老人が現れました。
杜子春が老人の言う通りすると大金が与えられましたが、またそのお金を散財し、無一文になります。
杜子春は再び老人から大金を与えられます。
3度目に無一文になったとき、杜子春は自分にお金がある時と無くなったときの人の態度の変わりようを思い、ほとほと人間が嫌になりました。
そして再び会った老人を仙人と見破り、自分を仙人にしてくれと頼みました。
仙人は杜子春を山に連れて行き「何があってもひと言も話さなければ仙人にしてやろう」と約束します。
杜子春は約束通り、どんな責め苦にあってもひと言も話しませんでした。
そんな杜子春に閻魔大王が腹を立て、死んでいた杜子春の両親を魔界から連れ出し、杜子春の目の前でめった打ちにします。
それを見た杜子春が思わず「お母さん」と声を出したところで、杜子春は目覚めます。
全てが仙人の見せていた夢でした。
杜子春はこれからは人らしく生きると言い、仙人から田畑をもらい、人の暮らしを始めました。
私がこの話を知ったのは、実は妹に来た天使のメッセージがきっかけでした。
ある晩寝ていると、胸の真ん中に「杜子春」と声のメッセージが届いたそうです。
その頃、私は「執着」について苦しみながら考えていたところでした。
なので、このお話に、親を思う人の心の大切さを感じ取る人も多いと思うのですが、私は執着を手放すことについて強く考えました。
世の中のほとんどの苦しみは執着で作られていると思います。
なんとかその執着から逃れたい、手放したいと願うのですが、そう簡単なものではないですね。
ダメとわかりながら、それは愛だからと言い逃れしながら、離れがたく、諦められない。
愛と執着の線引きを、平気で出来る人はいないだろうと思います。
杜子春は人やお金への執着を捨て、仙人になりたがりますが、実は気付かぬうちに仙人になることにも執着していたのかもしれません。
けれど、打たれる母を見た時に思わず「お母さん」と声を出しました。
見るに堪えない母の姿で、杜子春はやっと人の心を取り戻し、執着を手放せたのかもしれません。
人として生きていたら、執着を捨てるなんて、早々できることではないのかもしれません。
杜子春の姿で、私は執着はあって当たり前かと思いました。
「人の心に執着はあって当たり前、それを持たない仙人になろうなんてしなくていい。人の心を持ちながら現実を粛々と生きなさい」
これが私が受け取ったメッセージでした。
簡単にあらすじを書きます。
昔、中国に杜子春という男がおり、親の遺産で大金持ちだったのですが、散財し無一文になりました。
そのとき杜子春を助けてくれる老人が現れました。
杜子春が老人の言う通りすると大金が与えられましたが、またそのお金を散財し、無一文になります。
杜子春は再び老人から大金を与えられます。
3度目に無一文になったとき、杜子春は自分にお金がある時と無くなったときの人の態度の変わりようを思い、ほとほと人間が嫌になりました。
そして再び会った老人を仙人と見破り、自分を仙人にしてくれと頼みました。
仙人は杜子春を山に連れて行き「何があってもひと言も話さなければ仙人にしてやろう」と約束します。
杜子春は約束通り、どんな責め苦にあってもひと言も話しませんでした。
そんな杜子春に閻魔大王が腹を立て、死んでいた杜子春の両親を魔界から連れ出し、杜子春の目の前でめった打ちにします。
それを見た杜子春が思わず「お母さん」と声を出したところで、杜子春は目覚めます。
全てが仙人の見せていた夢でした。
杜子春はこれからは人らしく生きると言い、仙人から田畑をもらい、人の暮らしを始めました。
私がこの話を知ったのは、実は妹に来た天使のメッセージがきっかけでした。
ある晩寝ていると、胸の真ん中に「杜子春」と声のメッセージが届いたそうです。
その頃、私は「執着」について苦しみながら考えていたところでした。
なので、このお話に、親を思う人の心の大切さを感じ取る人も多いと思うのですが、私は執着を手放すことについて強く考えました。
世の中のほとんどの苦しみは執着で作られていると思います。
なんとかその執着から逃れたい、手放したいと願うのですが、そう簡単なものではないですね。
ダメとわかりながら、それは愛だからと言い逃れしながら、離れがたく、諦められない。
愛と執着の線引きを、平気で出来る人はいないだろうと思います。
杜子春は人やお金への執着を捨て、仙人になりたがりますが、実は気付かぬうちに仙人になることにも執着していたのかもしれません。
けれど、打たれる母を見た時に思わず「お母さん」と声を出しました。
見るに堪えない母の姿で、杜子春はやっと人の心を取り戻し、執着を手放せたのかもしれません。
人として生きていたら、執着を捨てるなんて、早々できることではないのかもしれません。
杜子春の姿で、私は執着はあって当たり前かと思いました。
「人の心に執着はあって当たり前、それを持たない仙人になろうなんてしなくていい。人の心を持ちながら現実を粛々と生きなさい」
これが私が受け取ったメッセージでした。