愛されているゆえの試練
クリスチャンの人たちの中にも、何かしらの試練に合うと、呪われているのではないかと感じる人たちがいるという話を聞くたびにびっくりしています。神様は、その人を深く愛しているがゆえに、試練を通してその人の信仰を訓練しているのだと思います。その人がそういう時に、信仰をどのように働かせていくか。神様にすがって信頼していくかを見ておられるのではないでしょうか。試練は苦しくつらく悲しいものですが、その痛みを通らなければ、わからないことや気づけないこともたくさんあります。また、試練によって砕かれて、私たちがへりくだったものに変えられていく大きなチャンスでもあると思います。そして神様は、天に私たちのために朽ちない宝を積み蓄えていってくださるのです。神様とお会いした時に、豊かに報いてくださろうとしているのではないでしょうか。まるで教会の中で、勝ち組と負け組があるみたいに、特に苦しみや試練のない人が幸せで、試練の多い人は不幸みたいなことになってしまうと、この世の中の御利益宗教的な考えと、まったく変わりません。しかし、実際教会の中でそういうことが当たり前のごとく起こっているのを見てきて、すごくおかしいと感じてきました。クリスチャンにとっては、霊的な戦いがあり、サタンの攻撃や誘惑があるのです。それゆえに、クリスチャンたちは、信仰の盾と御言葉の剣をもって、戦士として戦って、神様の助けを受けながら、勝利していく必要があるのです。私たちは、アスリートのように訓練されて、鍛えられたくましくされていくことが大事なのです。そして神様は、やがて天において私たちとお会いした時に、多くの勲章を私たちの胸につけてくださるのです。それは永遠において、私たちの栄誉栄冠として光輝いていくのです。ゆえに、試練は、私たちの成長を願うゆえの神様の大いなる愛の表れなのだと確信するものです。