大学、就職と東京には8年いた。
'92年ころの東京は学生の私にはバブルの実感は薄かったが、確かに活気に満ちていた気がする。
大学は神田にあったので古書街もよく歩いたが、三省堂や書泉以外は古めかしい本屋ばかりであまり入らなかった。
当時は演劇ブームだった。メジャー演劇はほとんど見なかったが、文学棟の5階で700円の学生演劇はよく見た。
舞台と観客の境がほとんどない、その暗闇が私は好きだった。
わが故郷の偉人、寺山修司は既に亡く、渋谷パルコで没後10年イベントなんか見たりして演劇への興味を深めた。
青森では寺山の名は全く知らなかったが、東京では10代の子でも知っていて驚いた。
県人として恥ずかしかった。
寺山が青森を土俗的に描いていた意味が分かる気がした。
元妻の九条今日子氏とも握手できた。
チェーホフの「かもめ」や向田邦子なんかの脚本を読んでみたりしていた。
出身俳優も多い演劇サークルのドアは叩いたが入らなかった…
入っていたら俳優人生が待っていたのだろうか?
作家だの脚本家だの、20才の私は、東京で夢にばかり浮かされていたのかもしれない。
'92年ころの東京は学生の私にはバブルの実感は薄かったが、確かに活気に満ちていた気がする。
大学は神田にあったので古書街もよく歩いたが、三省堂や書泉以外は古めかしい本屋ばかりであまり入らなかった。
当時は演劇ブームだった。メジャー演劇はほとんど見なかったが、文学棟の5階で700円の学生演劇はよく見た。
舞台と観客の境がほとんどない、その暗闇が私は好きだった。
わが故郷の偉人、寺山修司は既に亡く、渋谷パルコで没後10年イベントなんか見たりして演劇への興味を深めた。
青森では寺山の名は全く知らなかったが、東京では10代の子でも知っていて驚いた。
県人として恥ずかしかった。
寺山が青森を土俗的に描いていた意味が分かる気がした。
元妻の九条今日子氏とも握手できた。
チェーホフの「かもめ」や向田邦子なんかの脚本を読んでみたりしていた。
出身俳優も多い演劇サークルのドアは叩いたが入らなかった…
入っていたら俳優人生が待っていたのだろうか?
作家だの脚本家だの、20才の私は、東京で夢にばかり浮かされていたのかもしれない。