前回「生贄」についての記事を書いてみて、「生贄のない社会」ってどんな社会だろうと考えました。

 

 

「生贄」にされやすいのは、社会にとっての異質な存在、いわゆるマイノリティです。

 

社会は、マジョリティに合わせて、マジョリティが生きやすいように作られているため、マイノリティであることはそもそも生きづらいです。

 

そして、マイノリティであると認識されると、社会の均衡・安定を乱すものとみなされ、攻撃・排除されやすくなります。それが「生贄」状態です。

 

マイノリティでも、その社会が決めた「明確な基準」の中に納まっていればいいのです。

 

その基準からはみ出してしまうような存在を、その弱みに付け込むように、「生贄」とするのです。

 

 

しかし、その基準は社会ごとに違うし、時代によっても変わります。(最近のLGBTQや発達障害への認識の変化など)

 

特に占星術的に「風の時代」「水瓶座の時代」(え?俺の時代?←なぜ男モード?)と言われる今、そんな基準はどんどん無くなっていくと言われます。

 

つまり、マジョリティという概念は「幻想」で、皆が本音で生き始めたら「マイノリティ」だらけだった、という未来のビジョンです。

 

「マジョリティ」という概念と共に、「生贄」が「幻想」になっていくのです。

 

「マイノリティ」という概念も無くなります。

 

 

あれ?ここまで書いてきて、私が「巨大」と感じていた戦うべき「社会」は、もうこれからは自然消滅していくのではないかと思いました。

 

皆が持っている幻想が崩れていくからです。
 

 

だから、今、自分をマイノリティだと感じている人は、未来を先取りしている人であり、そのままの自分を大切にして、もっと振り切れてしまえばいいと思います。

 

そして、今自分をマジョリティと思っている人は、これから自分の本心と向き合って行くことになります。

 

 

そっか。私にできることは、ただ「自分らしさ」つまり「自分の好き嫌い」をはっきりさせ、それに楽しくこだわり、その姿を表現していくことかな、と思いました。

 

つまり、今ブログを通しやっていること、またはその延長にあるもの、かと思います。

 

 

そうだわ、もっともっと振り切れて、あっちの端まで行ってしまおう。

 

(そしたらまたぴょーんとこっちの端に戻ったりしますが・・・。)

 

 

 

 

それではまた。