前回に続きまして、私の好きな故郷の自然ということで、今回は、仲秋、晩秋、冬について語っていきます。

 

前回私は、仲秋のことを、中秋と書いてしまったのですが、中秋とは「中秋の名月」という使い方をするものであり、季節を表現するのは「仲秋」なのですね。

 

 

「仲秋」つまり秋も中ごろになると、太陽は低い位置を通るようになります。

 

そのためか、植物は秋の光に照らされて、きらきら輝きます。

 

私はそもそもいつの季節でも、植物が夕方の光に照らされて輝いている様子がとても好きなので、そんな様子に近いものが昼間から見られる仲秋が、とても好きです。

 

 

私の大好きな作家、銀色夏生さんは、おそらくそんな様子を描写したものだと思うのですが、「午前中にも、夕方の切なさがちりばめられているよう」と表現されています。

 

なんて美しい表現だろうと思います。

 

 

そしてちょうどこの頃に香ってくるのが、金木犀です。

 

私にとっては金木犀の香りが、秋の深まりを教えてくれます。

 

この時期は毎日金木犀をチェックし、今か今かと咲くのを楽しみにしています。

 

(この金木犀はお隣の庭木なのですが、お隣さんとは仲良くさせていただいておりまして、垣根もなく、ちょうどうちとの境に植わっているため、間近で鑑賞できるのです。)

 

いざ咲けば、小さな可愛らしい花たちに毎日あいさつして匂いをかいでいます。

 

強い風が吹くとすぐ散ってしまうような儚さなので、会える時間を大切に感じます。

 

 

そしてやはり仲秋といえば、「中秋の名月」と言うように、「月」の美しさです。

 

私は月が大好きで、外さえ出れば年中、夜昼なく月を探しています。

(月についてはまた改めて記事にしたいと思います。)

 

そして月に出会えると嬉しくなり、心の中であいさつします。

 

なので、いつの月も愛しく思うのですが、仲秋の頃の月は、空気が澄んでいるせいか、やはり冴え冴えと鮮やかに見えます。

 

 

私の住む県は、特に晴れの日が少ない県なので、中秋の名月の日に、晴れて満月が見れる確率は高くはないのですが、もし見れた時は、その鮮やかさと満月の迫力に、なぜか少し恐ろしさを感じます。

 

私は不思議なことに、月は大好きなのですが満月は少し怖く、ましてそれがあまりに鮮やかだと、とてもじっとは見ていられないのです。

 

なので、お月見の習慣は、私にとっては少し不思議です。

 

 

冬に近づき寒さも増してくる「晩秋」も大好きです。

 

 

紅葉もいいですが、私はススキが大好きです。

 

秋の光に照らされている様子や、秋風に揺れている様子は本当に美しいです。

 

 

晩秋は、冬に向かい草木もどんどん枯れて行ってしまいますし、雨もだんだん冷たく感じるようになりますが、その少し寂しいような、孤独の輪郭がはっきりするような感じが好きです。

 

 

私は、冬枯れの始まった、ひとけのない海辺の駐車場に車を止め、薄曇り、あるいは優しい小雨のなか、ぼーっと景色を見ているのが好きです。

 

その場所からは海はあまり見えませんが、空がゆったりと広がり、まだ葉の残るわずかな植物が風に揺れているのを見るだけで、世界はとても愛しく、穏やかな気持ちになります。

 

薄暗いためか、まだ早い午後の時間から、丸く趣のある街灯が点いたりすると、とてもとても美しく、情緒的に感じます。

 

 

儚く寂しい感じがするものが好きな私の心には、冬に向かう晩秋の季節感が合っているのだと思います。

 

 

晩秋の次は冬です。

 

雪国の、厳しい冬です。

 

 

冬の間は、雪により不便になる生活を、粛々と送っていくことに意識が向かいますので、季節感を味わうことが減ってしまいますが、私は、雪が深々と降り出す前の冬の初めに、雪が優しくちらつき始める様子が大好きです。

 

重くてしっとりした雪ではなく、まだ軽くてふわっとした雪が、風に舞ったり、くるくる踊ったりしながら、空から降りてくる様子に見入ってしまいます。

 

 

雪国では、降る雪が空気をきれいにしてくれるためか、冬は本当に空気が美味しいです。

 

外から帰ってくると、上着に美味しい空気の香りがたっぷり着いているので、私はよく、帰宅した家族や外回りから帰った同僚の人に、「美味しい空気の匂いがする」と言って、怪訝がられました。

 

あまり皆は意識しないみたいです。

 

 

・・・こんな感じで、ちょっと人とは違う、私なりの季節感を書いてきましたが、(読み返してみると、本当に一年中ぼーっとしています。)最後に私の感じる「田舎の良さ」をお伝えしようと思います。

 

 

それは「暗闇」です。

 

 

私は学生の頃数年間関東に住んでいましたが、夏休みなどで実家に帰った時感じたのが、夜の「暗闇」の良さでした。

 

 

「暗闇」って、こんなに良いものだったのか、こんなにも心にしみいるものだったのか、と、帰省した日の夜まず感じました。

 

住んでいる時は当たり前だった田舎の夜の「暗さ」が、都会ではどれだけ味わえないものか、そしてその「暗闇」はどれだけ心を落ち着けるものか、初めて気付きました。

 

一度田舎を離れてみないと、気付けないことでした。

 

 

私は自分のふるさとの「当たり前」だと思っていたことから、実はとても大きな恩恵を受けていたのだ、きっと当たり前に思っている他の事からも、大きな恩恵を受けているに違いない、と思いました。

 

そして、私を育んでくれたふるさとに対する感謝の念が、更に深まりました。

 

 

この「暗闇」の素晴らしさについては、その何年か後に、再体験する機会がありました。

 

 

それは「夜の海」です。

 

 

ある夏の終わりに、海辺の地区で行われている花火大会を見に行きました。

 

地区主催なのでこぢんまりしておりそんなに混まないため、砂浜に座ってゆったり見ることができます。

 

 

私は実はあまり花火に興味はなく、その時も穏やかな夜の海を何となく見ていました。

 

そのうちに、初めて見る夜の海の神秘的な「暗さ」「黒さ」に、とても引き込まれていました。

 

 

昼間の海とは全然違います。

 

ミステリアスで、甘い恐怖すら感じられます。

 

海って、やっぱりすごいんだな・・・と、畏敬の念が湧きました。

 

 

 

こんな風にふるさとの自然は、季節だけでなく、時間帯によっても様々な姿を見せてくれます。

 

どこにも行かなくても、同じ場所にいながら、変化する自然のそれぞれの美しさを楽しむことができます。

 

 

 

今はすっかり過疎化してしまった私のふるさと。

 

自然に対し人が少なすぎる気がします。

 

 

もっとこの田舎に人がたくさん住んでくれて、この自然の良さを味わう人が増えると良いなあ。

 

 

 

 

 

それではまた。