パソコンちゃん、持ち直してくれたみたいです。

 

パソコンちゃんに感謝!

 

 

今回は私の好きな本について語ってみたいと思います。

 

 

私はそんなに本を読むわけではありません。

 

昔好きになった銀色夏生さんと吉本ばななさんの本を、新刊が出るたび買って、ずっと読み続けています。

 

それでかなり満たされるので、他の作家さんを発掘しようという気も起きません。

 

尊敬する専門関係の先生が数名おり、その方々の著書を時折読みます。

 

本屋さんでたまたま惹かれた本を買うことはありますが、ごくたまにです。

 

 

今回ご紹介する本は、何かの記事で紹介されていたのを見て興味が湧いた、という私にしてはちょっと珍しい出会いです。

 

 

ミヒャエル・エンデ作 「モモ」 です。

 

 

その記事のどんな点に惹かれたか覚えていないのですが、おそらく、「時間どろぼうから時間を取り返す」というストーリーそのものに惹かれた気がします。

 

 

 

実際読んでみると、私がまずとても惹かれたのが、少女モモの身の上というか、境遇です。

 

 

モモは、天涯孤独です。

 

 

親のことは全く覚えていない、自分の年も分からない。

 

自分についての記憶は「前にいた施設での境遇は酷く、逃げ出した」というものだけです。

 

持ち物は何もなく、服は着ているぼろのみ。

 

大切な人もいない、物もない、楽しい記憶すらない。


 

つまり、モモは、ただの「天涯孤独」ではなく、全く何も持っていないのです。

 

そもそも何も与えられてさえいないのです。

 

「モモ」という名前すら自分で付けています。
 

 

 

とてもとても哀れな境遇です。

 

しかし見方を変えると、とてもとても「自由」です。

 

与えられたものは、自分の「いのち」だけ。

 

大切な人や、物、記憶は、その人を守り支えるものでありますが、その人を「縛る」ものにもなりえます。

 

それらを何も持たない「自由さ」。

 

更に、「自分の名前を自分で決める」ということも、

 

「自由」に関する、深く象徴的な意味があるように思います。

 

 

一見、誰からも哀れがられるモモの境遇に、私は強い憧れを抱きました。

 

そもそも私は昔から、主人公が天涯孤独だったり、親子二人、きょうだい二人ぐらしなど、ごく少ない人間関係の物語に惹かれがちでした。

 

私の大好きな漫画である、さくらももこさんの「コジコジ」も、「孤児」です。(「コジコジ」については改めて記事にしたいと思います。)

 

 

私がそのような物語に惹かれる理由のひとつは、私が一人っ子であるからかもしれません。

 

家族ひとりひとりとの関りが深く、そこにエネルギーを使ってしまうため、自分と向き合う時間が少なかったと思います。

 

もちろんこのことにより、家族から良い影響も受けており、感謝しているのですが、「もっと自分の心とじっくり向き合いたい」という思いが、成長とともに強まっていたようです。

 

それ故、「天涯孤独」な主人公に、自分の願望を投影したのだと思います。

 

 

ただ、「モモ」の場合は、「天涯孤独」に加え、究極ともいえる「自由」を持っていたため、私はより惹かれたのだと思います。

 

 

 

そのような境遇のモモが、ある都会の町はずれの廃墟に「いつのまにか住み着いた」ところから、物語は始まります。

 

そんなモモに対し、親切なまちびとたちは、引き取って世話することを提案しますが、モモは、廃墟で一人暮らししたいと希望するのです。

 

人々はその希望に応え、皆で廃墟を住み家に整えてくれます。

 

 

一人暮らしとなったモモは、人と一定の距離を保てることにより、「身近な人間関係」から自由です。

 

また、学校に行っていないので、「社会」からも自由です。

 

 

もともと「自由」だったモモは、新たな環境で暮らすことになってからも、かなりの「自由」が保証されたのです。

 

 

この「自由さ」により、モモには「時間」がたっぷりあります。

 

このたっぷりある「時間」を使い、モモはまちの皆の「役に立つ」ようになります。

 

どんなふうに「役に立った」か・・・

 

それは、この物語の中で、私が大好きな要素のひとつです。

 

それについては、次の回で語っていきたいと思います。

 

 

 

それではまた。