実家から帰ってみたら、パソコンが復活した!
まだ生きているうちに頑張ってもう一記事アップします。
今回は、syrup16g「赤いカラス」の歌詞について、語りたいと思います。
この曲の歌詞で一番好きなところは、冒頭の、
「赤いカラスが笑った 涙、止まりそうです
思い付きで転がした 今日が死んでゆくのです」
です。
1番の、おそらくAメロと思われます。(音楽的に疎くすみません)
まず、「赤いカラス」が「笑う」という、ビジュアル的なイメージが鮮烈です。
鮮やかな一瞬が切り取られていて、心をつかまれます。
「赤いカラス」は、「マジョリティに対するマイノリティ」の比喩である」と解釈できますが、その対象として「赤いカラス」を選ぶセンスは絶妙だと思います。
その「赤いカラス」が「笑う」のを見て、「涙が止まりそう」な程の衝撃を受ける語り手・・・
まずこの「涙、止まりそう」という表現が秀逸です。
「涙、溢れる」などではなく「止まりそう」。
衝撃を受ける様子としては、ありそうでない表現です。
そして、「止まった」ではなく「止まりそう」。
「今までは泣いていた」という過去、をイメージさせると共に、今が、「止まりそう」であるという過程、つまり現在進行形であることも示しています。
一瞬を切り取ったようでいて、実は、幅のある時間を表現しているのです。
この語り手が「涙が止まりそう」な理由として、集団の中において、その異質さによりつらい思いをしている「赤いカラス」が、そんな状況の中でも「笑う」。
このことが意味する、強い意志や精神性に胸を打たれたのだと思います。
そして、そんなカラスに胸を打たれる語り手の人もまた、つらい日々を送っていることが想像されます。
私も、自分の心の異質さにより生きづらさを感じている日々ですが、この部分を聴くと、強い気持ちが蘇ります。
ごく短い2文ですが、この部分は私に、多くの情報と深いメッセージを与えてくれます。
次の、「思い付きで転がした 今日が死んでゆくのです」の部分は、まず、言葉の選び方、組み合わせ方が秀逸です。
日々を「思い付き」で「転がす」
そんな「今日」が「死ぬ」。
一言一句がこの上なく絶妙です。
言葉に対する、研ぎ澄まされた感性を感じます。
カラスに刺激され語り手は、自分自身の内面と向き合います。
虚無感を感じつつも惰性で繰り返していた日常が、価値を無くす。
逆に言えば、自分の日常を無価値化できたのは、カラスに触発され、新たな価値を見出したからです。
見出したというより、もともと自分の中にあったものを思い出したのかもしれません。
先ほどと同じく、このごく短い1文が表現する内容は深いです。
冒頭のこれらの歌詞は、わずかこれだけの言葉で、こんなにも豊かな内容を表現しています。
それ故に、私は「赤いカラス」に強く惹かれるのだと思います。
歌詞についてはもう一か所、お伝えしたいと思います。
今更なのですが、「赤いカラス」には2パターンあります。
一つは、五十嵐さんのソロプロジェクト「犬が吠える」として発表されたもの、
もう一つは、syrup16gのアルバム「delaidback」に収録されているものです。
これらは、歌詞、メロディ、アレンジにおいて異なる部分があります。
(先ほどご紹介した部分は、歌詞もメロディも同じです。)
これからご紹介する部分は、syrup16gのほうです。
多分1つ目のサビかなと思います。
「当たり前に 月日は流れるだけで
その光のない輝きも いずれ闇に堕ちる」
「光のない輝き」という表現が、とても秀逸です。
言葉の組み合わせが、一見矛盾していますが、光=光源、輝き=世の中の、明るく見えるメジャーな部分と考えると、「世の中のマジョリティは、実体のない幻。いずれ消える」という意味かなと思います。
この考えは、古典にも出てくる「無常感」に似ています。
あるいは、今のご時世ともリンクしています。
普遍性を感じる歌詞です。
この歌詞のもう一つの解釈として、「光のない輝き」=「惰性で繰り返す自分の日常」とも取れます。
次のサビであるクライマックスも合わせて考えると、こう取った方が自然とも言えます。
いづれにせよ、マジョリティもマイノリティも、社会に組み込まれて生きざるを得ないことを考えると、同じことかもしれません。
以上「赤いカラス」の歌詞の一部について、語らせていただきました。
読み返してみると、何か国語の授業みたい。
私の理屈っぽい部分全開って感じ。
まあ、いいか。
語ってて楽しいし。
まだまだ語り足りない感じですが、次回はメロディに行きたいと思います。
ではまた。