1990年~2007年位の出来事を思い出して書いています。

東海大学病院で、腹腔鏡検査をしました。
全身麻酔下でお腹を炭酸ガスで膨らませ、骨盤内を内視鏡にてくまなく見るというものでした。
これで不妊の原因がわかるということで、ひとつ解決するような安堵感を感じました。
検査の結果は、右卵管が癒着しており(内膜症か腹膜炎によるのかわからない)左卵管も細いということが判明しました。
そうするといくら不妊の治療、ホルモンやAIHをやっても挙児の可能性は少ない。
なので私の場合はIVF(体外受精)の対応となるということを聞き、
迷わずその方向でやってみることとしました。

そして何回かの通院を経て、IVFをやることとなり幸運にも一回の移植で妊娠しました。
今は30%の成功率だそうですが、当時はもっと低いものでしたから本当に嬉しかったです。
私としては、子宮内膜症が悪化していくと言う認識があったので、
早く生んでしまおうとという
切羽詰まった気持ちもありました。
のちに予感は当たるのですが。
子供を産んだ三年位は、内膜症は一進一退という感じでした。
40歳ころからは明らかに痛みも増し、出血量も多くなり毎月が辛かった
です。
半年に一回、血液検査と細胞診をやってもらってましたが46歳の時に、町の行きつけの婦人科の先生が、「細胞の顔つきがおかしい気がすると」言いました。
思えば最初の告知だったのでしょうか。
私は、がん???という言葉は出ないにしても何かがおかしい!と感じていたので
絶対がんなんだ!!と車の中で、ボロボロ泣いてしまいました。
とてもショックでした。
そしてすぐ大出血で意識がもうろうとしてしまい、救急車で告知してくれた婦人科へ運び込まれるも
先生は手が出せないと言われ、沼津の市立病院なら婦人科医が何人かいるのでそこへ!と言われ
救急車のハシゴみたいに沼津の市立病院へと運ばれたのでした。
当時静岡県富士宮市と言うところに住んでいて、かかりつけ医は富士市、運ばれた病院は沼津市なので
すごい長い距離を救急車で移動したという事です。
沼津市立病院の先生は、自信たっぷりな先生で「子宮体がんで9割間違えないね!」
二回目の告知でした。
そうなのか・・・ともう落ち込みようがないくらいでしたが、笑って告知する医者に腹が立ち
ここではオペしたくない!!と思い、静岡県立がんセンターへの紹介状を書いてもらうことにしました。
なんでうちでオペしないの~?と言われましたが、餅は餅屋が良いと思います!なんてヘンテコな返事を返したのを覚えています。
がんはがんセンターが良い!と直感的に思っただけなんですが。

そして二週間の入院のあとがんセンター(長泉町)に出向いたのでした。
がんセンターは当時、まだできたばかりで真新しく庭園も素晴らしく、まあここで治療できたら何があっても悔いが無いなあと思わせる病院でした。
体がんという事でオペをすることになりましたが、申し込みから二か月くらいかかりました。
先生にがんなんだから早くオペお願い出来ないですか?とお願いしたけど
みんながんだから、我慢してねと言われ、そりゃそーだなあと納得してオペまで不安な日々を過ごしました。

当時は肉腫だなんて少しも思わなかったですから、体がんのことを調べたりしてました。
いよいよオペが決まり、いよいよ悪いものを取れるという嬉しさがありました。
貧血がひどいという不安はありましたが期待と不安がありました。
オペ当日は緊張のあまり良く覚えてませんが、とにかく怖くてガタガタ震えてしましたが
看護師さんが優しく抱きしめてくれて、ようやく震えが止まりました。
看護師さんて天使だなあ!と強く思い、不安も吹き飛びました。

オペ台に横たわり、まな板の鯉状態の時に若い看護師さんがいきなり言いました。
「奈月さんは血液検査の結果、貧血がひどいので硬膜外麻酔はやめておいた方が良いんじゃないでしょうか?」
もとより、その麻酔のおかげで術後も疼痛管理できるので不安が無いということだったので、安心していたのですが・・・・
今、言うかなあ~~~~と私はびっくりしました。麻酔を点滴がおちる1分前にですよ!!!
速攻で考えましたが、どうしたら良いのか答えがすぐでませんが、、、、私は「無しでやっちゃって下さい!」と答えてしまってました。
えい、ままよ!!というどうにでもなれという気持ちしかなかった。
そして眠りに落ち、気が付いたときにはオペは終わっていました。三時間くらいで終わりました。  続く



オペ後飲んでたチャガ茶(カバノアナタケ)
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