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甲状腺乳頭がんと闘うアラサー女子の日記

なんで、病気になったのだろう・・・


健康にも気をつけて、食事は手作りをして、ジムに通って運動もして、とても健康体なのに・・・



甲状腺。


放射能?


放射能!!!




そうだ、私は高校生の時にわずかながら被爆をしている。



1990年9月30日(木)



私は高校三年生だった。



その日、茨城県東海村で、大きな事故が起こった。



「東海村JCO臨界事故」



実は私の住まいは事故があった場所からそこまで遠くはない。


近所というわけではないが、半径10キロ圏内くらいであろう。



その日、私は何をしていただろうか。




思い出そうとするが、全く記憶にない。


だぶん、普通に高校へ行って、普通に生活をしていた。


というのも、今でこそ、放射能の恐怖や危険については、一般の人間でも知っているが、当時は危険性などわからなかった。


だからこそ、放射能の見えない恐怖について、関心はあまりなく、記憶にも残るものではなかったのだ。



ただ、その日の夜だったか、朝だったか、担当教師から電話があり、10月1日は自宅待機だったことは覚えている。


土日をはさんで、すぐに解除になって、数日後からはまた普通の生活に戻っていたけれども。




今考えると、非常に恐ろしい経験をしていた。



放射能が漏れていることの伝達の遅さに加えて、危険性への認識の無さ。


その当時、思っている異常に放射能を浴びていたのは間違いないだろう。


1、2日でなくなるものではない、なんて知らなかった。


見えないから、わからなかった。





小さいころ、東海村にある親戚の経営する塾へ向かう車の中で、よく「原発が爆発したら、みんな死んでしまうよ。怖いね~。ははは~。」と一緒に乗っている従兄弟たちと話をした記憶がある。



すぐに「死ぬ」ことはなくとも、被爆というのは目に見えないダメージを人に与えているのは間違いない。



私の甲状腺乳頭がんがその東海村の事故が原因だったかなんて、今更検証できないし、故に訴えるということもできないが、きっと何らかしらの影響を与えていたかと思うと、なんだかとてもやるせない気持ちになる。



福島の子供たちも、体調に変化が現れるのは10年後とか、しばらくしてからだと思う。


その時に、国は守ってくれるのだろうか。




とにかく、病気になった原因は定かではないが、病気の原因は自分以外の何か、誰かにあるのではないかと思い、その怒りは考えるほど、大きくなるのだが、その怒りの矛先を向ける先はなかった。




誰かのせいにしていたら、一生良くならない。


強い自分でいなければ・・・



そんな事を考えながら、一週間はあっという間に過ぎていった。