ひさしぶりの更新。
過去の更新履歴も大したもの。ひどい英語を書いていたものだ。

英語ばかりの日々の中で、ふと日本語の輝きに気づくことがよくある。だから、日本語で書きたくなった。

司馬遼太郎が、人が一番はじめに接する芸術とは「言葉」と記述していたことを思い出す。。
芸術なんて曖昧で、都合良く利用している人も多い昨今だけれども、
幼きころ、母に読んでもらった絵本の世界、祖父が読んでくれた落語(じゅげむじゅげむ。。)、そんなことを今でも覚えているのだから、言葉の世界は偉大で、当時の心を大きく動かしたのだろうと思える。

ビジネスの世界でも、たんてきに的を得ている文書を目にすると感服する。
機能性を追求した文書は、工学的センスを感じさせてくれる。
一方で、登場人物の複雑な感情や心境の揺れ動きを自分の語彙をフル活用して表現しようとする
小説や、歌詞にも感動すること多々。

テレビをつけると言葉が並列化して、どこのチャンネルも同じような言葉が響きわたる。
BGMの世界。無味な情報が垂れ流しされる社会は、なにか見えないモノに管理されているように感じてならない。

海岸にたつと、様々な音が響き渡り、言葉の原石であるそんな音を誰かに伝えようとするとき、
想像力は無限に広がり、ちょっとした言葉遊びが始まる。
「知らないものは探さない」といったもので、しっくりくる言葉を、頭の中でぐるぐる考え、それを見つけたときの一入の感動。

別に日本のテレビという情報チャネルを批判したくて、書いたんじゃない。

ネットが世界中に広がり、ブログ/メール、チャット、ツイッターと、日々進化する情報の伝達方法が、
人の感性をより率直に伝達する機能性を帯びてきている世の中は、多様なコンテンツを創造する場となる一方で、全てを並列化するリスクも帯びているようでならないだけ。

2011年9月の私はこんなことを考えているよ。