世界的にスマホは利用されている。
最近じゃタブレット端末なんて名前で
やたらとデカくて携帯性を欠くものも
電車内など移動中にもよく見かける。
家の中ではパーソナルコンピュータがあり
またネットに繋がるデジタルテレビがある。
こんなに様々な機器がネットに繋がり
ネットを経由して様々な視聴覚メディアを
長時間に渡り大量に消費する現代だが
これは何も誰もが希望していた状況なのか?
実はさきほど妻が
某通信会社の機種カタログを眺めていた。
私は妻と会話しながら横目で眺めた。
予々スマホの通信料があまりにも高額だと
いう想いから再びケータイへ戻したいと
考えるようになっていた。
仕事上、機密保持を理由に
カメラの持ち込みを禁止されていることから
カメラ無しケータイがラインナップされて
いないかという淡い期待を抱いて見ていた。
そしてそれはラインナップされていない。
あるのはスマホちっくものと老眼用の
カンタンケータイシリーズのみだった。
仕方がないので諦めて妻と共にケータイの
料金プランを見ることにした。
当然ながらスマホの月額料金はケータイの
それに対して3倍を超える値段だ。
当然ながらスマホとケータイでは機能も
性能も雲泥の差があることは今更な話だが
よくよく考えればなぜ
『スマートフォン』
という名称なのだろうか?と想いが浮んだ。
Phoneは訳として電話であるのだが
スマホと呼ばれるこれはもはや電話ではない。
なぜか?それは電話は単なるアプリの一つで
スマホ本体はそれを動かす汎用的な
コンピュータの単なる一つの形態に過ぎない。
例えばLINEを使えるMacbookやWinPCなどの
パソコンはなぜスマホと呼ばないのか?
という問いと同意である。
そしてパソコンを電話と呼ぶか?と問えば
誰しもがそれは『No.』と答えるハズだ。
では改めて考えればなぜスマートフォンか?
これは明らかに通信会社の営業戦略であり
国外の通信・IT会社の参入障壁化の先手
であり、消費者側に立ったものではなく
国内通信会社とこれと癒着した経産省の
既得権益保護体制が表に現れた形だと
個人的に考えられた。
そしてこれまでのケータイは電話として
スマホに見劣りするか?と言えば
テレビ機能を除けば『No.』だろう。
(テレビ電話も厳密には電話ではない。)
それならばケータイは電話として
従来通りに販売することは通信会社の
社会的使命や社会的価値の提供と
言えるハズだ。
なぜ利用者側に業界の都合を押し付けられ
選択の自由を奪われるのみならず
高額な料金設定を求められる必要が
どこにあるというのだろうか?
なぜ老眼が始まったり進んだりして
ただでさえ眼が疲れやすい人々が
苦痛を覚えるような道具が世の中にこれほど
溢れていなくてはならないのか?
なぜスマホで電話を掛けることですら
難しいと感じる人をDigital divide世代と
差別する現象が起きるのだろうか?
詰まる所は通信会社を中心にした通信村が
弱者に寄り添う社会正義や使命よりも
自らの既得権益を拡大することだけに
企業を経営しているからに他ならず
通信業界(民)と行政(官)が金融的価値のみを
追求する歪んだ経済構造(金融資本主義)を
基盤にしているからだと考えた。
音声・パケット通信量を資源になぞらえば
まさしく無尽蔵に湧く原油という比喩が
出来るだろう。
ただし大きな違いがそこにはある。
それは無尽蔵に湧く原油など存在しないこと。
通信はインフラさえ整えば半永久的に
利用者から搾取し続けられる仕組みなのだ。
その点だけでいえばクレジットビジネスと
同様に捉えられる。
正直にいえばそんなことなんかよりも
単に電話のみの機能を持つ安いケータイが
使いたいだけなのだが…。
了

