牛は悪くない。飛騨牛は悪くない。誇り高き生産者は悪くない。 | One! 

牛は悪くない。飛騨牛は悪くない。誇り高き生産者は悪くない。

マス的アプローチは効かないといえど、それは我々の商売だけ。
こんな記事は、テレビ・新聞・ラジオ・雑誌・ネットを中心に瞬く間に広がる。
それに付け加え、最悪なことに丸明の社長の対応が良くない。
(まぁ、責められない。大企業も含め、マネジメントは愚かであることが多いので。)

飛騨牛偽装に関する"良い"社説

いま、国民一般は「飛騨牛は食べたくない」と思うだろう。

ただ中部出身者として、小さいながらも声を上げます。

 「牛は悪くない。飛騨牛は悪くない。悪いのは丸明である。」

ブランドの責任は全てマネジメントによって左右される。されなければならない。
船場吉兆はその恒例であろう。ただこの飛騨牛のケースは違う。
何故なら地域ブランドであるからだ。

船場吉兆であれば、そのブランドが指し示すものはひとつしかないから、一人が責任を取ればいい。
最終的には船場吉兆を潰せばいい。
(吉兆本店に若干の影響があるけれど、まぁそこは消費者の判断が働くとします。)

一方、「飛騨牛」ブランドは地域をあげて生産しており、多数の生産者が存在する。
生産者の大半が真摯に牛を育てている。
しかし「飛騨牛」という地域ブランドで括られている結果、丸明の偽装のせいで、全生産者に悪影響が出る。
最悪の場合、「飛騨牛」ブランドは、岐阜から姿を消すだろう。

この作用は、地域ブランドの成り立ちに起因する。
地域ブランドのマネジメントは、地域一人一人である。
ブランド力の向上は、一人一人の生産者に、利益として均一に配分される。
同様に個々人のマネジメントのミスが全てに等しく分配される。
よって上記の作用が働いてしまう。

そして地域ブランドは最悪なことに財務は個人の管理下にあるため、自分で努力する以外、収益は入らない。
ただ努力が全て「飛騨牛」ブランドに繋がらない。均一の全員の努力のみでしか価値向上を促せない。

この地域ブランドのマネジメント構成と収益モデルのねじれ構造が、悲劇を生み出す。
一定以上ブランドを確立すると、さらなるブランド価値向上は、長期的な投資で、しかもそれによる利益獲得は年単位では微増ある。個人の努力ではどうにもならない。

その場合、短期的な利益獲得は、己を偽るという努力でしか、利益を獲得できない。
偽装という行為は、このシステム下での、唯一可能な個人裁量での単独の収益獲得になる。

しかし、それが明るみに出れば、地域ブランド全体に最悪の影響を与える。
一人の利己主義が、名もなき畜産生産者の血と汗と涙を、消し去る。
一人の悪意が、部分の罪が、全体に侵食する。そして崩壊する。
まさにパンドラの箱である。ただし一番奥にある希望は抜いてある。

地域ブランドの限界は、この脆弱さにあるだろう。
そして、マーケティングの専門家たちは地域ブランド利権を得るだけで、この対応を行っていない。

でも、「牛はちっとも悪くない、飛騨牛も悪くない。悪いのは丸明だ。」と伝えなければならない。
そして、誇り高き生産者を救わなければいけない。

さて、どうしようか。
私は、地域ブランドの今後は、ブランドエクイティの細分化しなければならないと思う。
地域をさらに分け、最終的には畑、牧草地まで見せる。
そうすれば、一人一人が地域という特性を持ちながら唯一無二のブランドマネジメントの権利を得る。

地域で括るのは規模の経済を目的としている。なので複数生産者が一ブランドを扱うことになる。
その目的がある程度達成され、ブランド力が上がった段階で、商品に掘り下げたブランド作る。
これは全く企業のそれと一緒だ。
そうすれば、マネジメントが個人単位まで堀下がる。
堀下がることで「丸明ブランドが悪いだけで、田中ブランドは悪くない。」という、生活者判断が働くようになる。
宮崎のマンゴー「太陽の卵」くらいまで彫り下がるとベストかと思う。

ただお金にならないから、マーケティング会社はやらないだろう。
もっと、我々は地域というブランドを真剣に考えなければならないなぁ。と最後は自戒。