そういう訳で、20年間、同じ講義内容を話していたのに、今年になって、いきなり伝わるようになったのは、私に起きた変化のせいではないか、という話の続きです。
◆私の何が変わったかというと、基本的な気持ちの部分です。
今となっては、お恥ずかしい話ですが、去年までは、生徒の答案の添削をしながら「なんでこんなに出来ないのかなぁ。」と、出来ない点や間違いに集中的に目が向いていました。また、一緒に添削している他の先生方の「こんな事も書けてない!」というコメントが、あたかも私の講義での教え方が悪いから生徒が間違えるのだ、という自分に向けての批判に聞こえ、あまり愉快に思えなかった部分もあったかもしれません。
このように、添削作業で疲労して、どんよりゲンナリした気持ちのまま教室に行って解説講義すれば、いきおい話の内容もネガティブになっていたでしょう。「これこれこういう間違いが多かった。この書き方ではダメだ、減点されるぞ。」と、批判と脅しばかり聞かされれば、生徒達だって、耳を塞ぎたくなったでしょう。私が必死に話せば話すほど、生徒達は、頭と心の扉を閉ざしてしまったと考えられます。そんなんじゃあ、できるようにはなりませんよね。
それが、今年は、変わったのです。
私は、感情を乗せることを止めたのです。
「何回言ったらわかるの!何でできないの!」と思わなくなったのです。
答案のそこにあるのは、ある単語の使い方が正しくない、という事実があるだけ。おそらく日本語で言いたいだろう事と英語で書かれた文の意味が違う、という事実があるだけ。今この12月という時期にその違いに気付いたら、2月の入試本番で正しい表現が使えるようになっているだろう、という希望があるだけ。
どんなに生徒が間違いだらけの答案を書いてきても、私はネガティブな感情を一切まとわずに教室に行くことができるようになっていたのです。「これはダメ」という言い方は、「こう書くといい」に変わりました。
そのせいでしょうか。生徒が私の話を聞く姿勢が去年までとは随分違ったのです。
みんなマスクをしているので目しか見えませんが、その両目がまっすぐ私の方を見ています。私も、彼等の目をまっすぐに見ています。
そうした講義の積み重ねで、3日目、4日目になると、英語らしい論理展開のある見違えるようなパラグラフが書けるようになっていったのです。
このように私は変わりました。
感情にコントロールされない術を身につけていました。
では、私を変えたものは、一体何だったんでしょうか。
それは、また明日。