今日の調査で想ったことと気付いたこと。



さっき、記事アップしたけど、ただの日記になっちゃったので汗



色々感じるけど、言葉にするのは難しい。

文字も話し言葉も。



でも、ちゃんも言葉にするともやもやは一気に晴れるので、ここでちゃんと自分の気持ちだけははっきりさせておこうと思います。




今日から小2のクラスに調査に入りました。

可愛い天使は知的部門の4人。



会話でコミュニケーションをある程度取れる子、単語や音声、身振りでコミュニケーションを取る子、音声言語は持たない子と4人しかいなくてもコミュニケーションパターンは様々。



会話でコミュニケーションを取れる子も、時々音声だけを記憶し発声してしまうので、その子をよく知らない大人に勘違いされることもあります。


言葉と想ってることが一致しないことも、ここの子たちにはままあること。

音声言語があるからこそ、見落としてしまうし、気付きにくい部分です。

わかっていても、音声言語に惑わされてしまうこともあります。



今日、特に想ったこと。



それは、私たちはコミュニケーションの「正しい形」というものにかなりこだわってしまっているのかもしれない。


それが知的障がいや発達障がいと呼ばれる人たちがコミュニケーション場面でぶつかってしまう壁になっているのかもしれない。




今日、教室にあった紙風船でキャッチボール的なことをしてある子と遊びました。

その子は音声言語はまだ見られておらず、独りでいる時は情動行動がやや多い子。



コミュニケーション取りづらいかな?

と、やっぱり始めは思ってしまう。

私も健常者目線から抜け出せていないことに気付く瞬間です。



教室にあった紙風船にその子が興味を持ちました。

たまたまその子が投げた紙風船が私の足元に来たので、キャッチボールで遊べるかな?と思ってその子に向かって投げてみました。



投げられた紙風船が床に落ちると、近づいていき拾い上げます。

その時、「○○ちゃん、こっち!」と声をかけますが、私の方に目線は浮かない。


投げたのか落としたのかわからない動作で、紙風船を再び床に舞わせ、その後別の教員の背中にぺったり。



何回か、その子の名前を呼びながら投げてみました。

投げると足元近くに落ちた紙風船を手に取るけどまた落として別の所へ



続かない。



遊ぶの嫌かな?

名前呼ばれたから反応しただけか…

と、
キャッチボールを諦め、その紙風船を私の背の方にあった机の上に置きました。


つまり、その子と反対側です。


すると、その子はサッと動いて、紙風船を再び手に取り、また床へ。

そしてその後は触らない。

もう一回確認のため、紙風船を手に取り、その子と全然違う方向に投げてみる。



すると、また拾いに行くじゃないですか!



私の順番、その子の順番って思ってたみたい!


私が触らないと絶対もう一回触らない。


投げた後、別の教員の背中にぺったりしつつ、
こっち見てるじゃん!
と、後から気付く私。



その瞬間、キャッチボールは手と手で取り合うものとか、相手の方を見るとか、相手に向かって投げるとか、
一般的な関わりを想定していたのだと気づかされました。


こうゆうのをキャッチボールって言うのかもしれないけど、
私はその子とキャッチボールをすることを目的としていたのではなくて、関わることを目的としていたはず。



その関わることにも、「○○してるから関わっているんだ」とか一般的なパターンを想定して、その枠組みの中で捉えてしまってたと思います。



なかなか一瞬でその子の行動が、その子なりの関わり方なんだと気付くのは難しいですが、

まず前提として、
コミュニケーションを取らない
人に興味を示さない
なんてこと、100%有り得ないと思うようにしていくことが大事だと思いました。



障がいを持っていると言われる子どもは(大人もそうですが)、やはり「一般的」とか「常識」と言われる範囲の中で判断されると、全ては理解されません。


でも、健常者と言われる人たちも、自身の100%が常識的な訳ではないと思うんです。


ちょっとみんなと違っているから、個性ってものがあるんだと思うんです。


みんながみんな、ちょっと違う部分があるんだってことを理解して、

障がいを持っている人たちに対しても、

コミュニケーションが取れない、と可能性を捨ててしまうのではなくて、


何かしらの方法で伝えているはず

という前提に立って、

どれがコミュニケーションなのかを探っていったら、きっと見つかると思うんです。



もちろん、簡単なことじゃない。

すぐには難しいかもしれない。



でも、目の前にその人が存在することを否定する権利は誰にもないし、

その人を排除することわ許される人もいてはならない。


そうしたら、可能性をハナから捨てるんじゃなくて、

可能性を探っていった方が絶対幸せだと思うんです。



これは、障がいを持った方々だけにいえることじゃない。

どんな人にも当てはまるはず。


例え言葉遣いが悪くても、態度が挙動不審でも、口べたでも、

きっと何かを伝えようとしていたはず。



そうゆう前提で社会が成り立っていったら、

孤独感を感じる人はぐーんと減って、

安心からホッと息をつける人たちが溢れるんじゃないかなって思いました。



コミュニケーションの形を決めてしまうと、ちょっと苦しいです。


今の社会は健常者に作られているのに、健常者にとっても息苦しい社会になってる気がする。



もう、障がい者も健常者もみーんな一緒で、みんながみんな温かいと思えるコミュニケーションを想定しちゃいましょうよ。



そしたら、たくさんの虹が出来上がると思いました。



どうやったら、この虹、作れるかな。


作り方、探さないとね!
材料見つけたらレシピ探し☆




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