昨日は「何もしたくない。気力がない」一日でした。天気のせいもあるのかもしれません。

 

こういう日は晴耕雨読。

野球を3試合はしご見しながら本を読み、アニメを見て、タスクとしては少々の家事と魚の水換えくらいしかしていない。

 

こうやって書いてみると陳腐化するんだけれども、

やっぱりこんな自堕落な生活を「していいんだ」と心の底から思えないと、日々の幸せな生活はおとずれないんだろうな。

 

 

うわみわびの「この本がおもしろい!」第17回。

 

 

【前回の記事】

 

 

 

 

島崎藤村 著『破戒』 新潮社 (1987)

 

 

 

 

 

 

 

 

勝手に評価表

ストーリー

☆☆☆☆☆

アクション

☆☆

感動

☆☆☆

 

 

自分一人なんかじゃ生きていけないんだな

 

 お志保の苦悩

 大所帯かつ貧乏の敬之助の家から寺へ預けられたお志保。しかし男ばかりの寺での女の暮らしの大変さが文章から痛いくらいに伝わってくる。思い切って父である敬之助に己の辛さを打ち開けるお志保。娘の心中を痛いほど解っていながら、経済面の弱さを自覚して強く娘を引き離す父。これほど悲しいことがあるだろうか

 この悲劇の原因を敬之助の出自に求めることも、自堕落な生活に求めることも私にはできない。なぜなら、彼の出自を悪く言う風潮、社会の目が彼を憂鬱にさせ、彼の憂鬱な気持ちが彼の自信を無くさせ、自堕落な生活へと追い込んでいるからである。

 お志保と敬之助、どうすればこの二人は幸せになれるのであろうか。幸せは考え方・セルフイメージの持ち方次第で自分で幸せになることはできるかもしれない。それでも、そこには他者からの承認欲求を満たしたり、社会に貢献することによる自己承認欲求が絡んでくるからだ。これらの「承認欲求」は他者・社会との関わりによって満たされるものだ。したがって、周りの人々・社会が変わらなければ救えない人々がいる。これは覚えておかなければならないだろう。

 

 

 ラストシーン

 丑松は自身の苦しい境遇をなんとか乗り越えるための希望を見出したのであるが、他方、学校側の対応はお粗末なものだった。「同僚としての嫉妬」などと美しい言葉で表現されているが、「改革」の名のもとに差別を拡大しているのである。教育機関でこれが行われているのだから世も末と思えてしまう。

 とはいっても、ドラマのワンシーンとみるといかにもリアルな情景である。丑松を庇う銀之助と勝野のバトル。その裏には教員内の派閥争い……。銀之助もこの先苦労しそうである。

 これら学校での一連のシーンは純粋無垢な生徒たちが主だって見られる。彼らは自らの先生をその風貌では値踏みしない。彼らは純粋に先生が教えたことの中身をみて育っているのである。彼らは荒唐無稽な党派争いを繰り広げる教師たちとは対岸にいる存在だ。どちらが人間としてよいのか、大人か子どもか、考えさせられる。

 

 

丑松がさんざん苦しんできた故郷を離れるシーンの描写は見事なものである。その心情が比喩とともに私の心にしみこんできた。

 

霙はしんしんと降り注いでいた。橇曳は饅頭笠を冠(かぶ)り、刺子(さしこ)の手袋、盲目縞(めくらじま)の股引という風俗で、一人は梶棒、一人は後押に成って、互いに呼吸を合わせながら曳いた。「ホウ、ヨウ」の掛声も起る。丑松は人々と一緒に、先輩の遺骨の後に随(つ)いて、雪の上を滑る橇の響を聞きながら、静かに自分の一生を考え歩いた。猜疑(うたがい)、恐怖(おそれ)――ああ、ああ、二六時中忘れることの出来なかった苦痛(くるしみ)は僅かに胸を離れたのである。今は鳥のように自由だ。どんなに丑松は冷たい十二月の朝の空気を呼吸して、漸く重荷を下ろしたようなその蘇生の思に帰ったであろう。譬(たと)えば、海上の長旅を終わって、陸に上った時の水夫の心地(こころもち)は、土に接吻(くちづけ)する程の可懐(なつか)しさを感ずるとやら。丑松の情は丁度それだ。いや、それよりも一層(もっと)歓(うれ)しかった。一層哀しかった。踏む度にさくさくと音のする雪の上は、確実(たしか)に自分の世界のように思われて来た。

 

 

 

 誰もが生きやすい世の中へ

 本作は上手い具合に収まりました。準ハッピーエンドといってもいいのではないでしょうか。私は本書を通して次の二つのメッセージを受け取りました。

 

社会が作り出す生きづらさ

 

自分の生きる場所を見つけ出せ

 

 

 1つ目が社会が作り出すいきづらさ。私たちは一人の人間として生きています。本来ならば、どのように生きたいか、何がしたいか、何に幸せを感じるか、は私たちの自由なはずです。しかしながら私たちは社会という箱のなかに生きています。例えば結婚観などはどうでしょう。私たちの生き方が自由なのなら、結婚をするか、という選択しも自由なはずです。しかしながらある年になって結婚していないと「まだしてないの?」という社会の視線を感じることもあります。どうやら社会には「結婚してこそ自立した大人」であるという認識が根底にあるようなのです。子供を持つということは、人生の主語が「自分から家族」に変わる、と言ったのは心理学者のアドラーです。その観点からすると結婚は人生における大きな成長を意味します。でも結婚が成長だからといって、その反対が悪である、というのは稚拙な結論ですよね。これはあくまでも選択肢の問題です。物事の大小こそことなりますが、今夜はカレーにするか肉じゃがにするか、というのと本質は変わらないですよ。

 社会の目が人を生きづらくさせていることは大いにあると私は思います。最たるものが「~するべき」という考えでしょう。私もブログで自身の考えを発信していますが、特にこの「~するべき」という言葉を使いそうになる時には注意しています。私のブログ記事は読者を説得するものではないからです。私の言葉は私にとっては信じられるものですが、読者の皆さんにとっては考えるうえでの選択肢である、という認識は常に持つように心がけています。判断するのは読者なのです。同時に私が読者として他者のブログを読む時も同様です。このことが根本にないとSNSを代表とする万人情報発信社会は機能しないと考えます。

 社会と同様に私たちの人生に大きな影響力を持つのが家族の存在ですね。毒親という言葉も浸透してきているように感じますが、幼少期からの家庭での経験がその人の人格に大きくかかわっていることは言うまでもないでしょう。お志保は家庭に救われなかった人物です。本来ならば彼女はもっと幸せになれたはず。そう思わずにはいられません。今後、彼女が自らの手で幸せを勝ち取ることを願ってやみません。

 そう。丑松もお志保も小諸というこれまでの小さな世界から抜け出してもっと広い世界、広い価値観のなかで生きていくことを選んだのです。

 

 本書での丑松やお志保、敬之助などの人物は以上のような環境の被害者である。どうすれば彼らがもっと生きやすい世の中になるのか。これは現代を生きる私たちにとっても考える価値がある問いであると思います。

 

 

 私たちの過去は変えられませんが、未来は変えられます。お志保や丑松がこれからの人生を歩んでいく姿がまさにそれです。残念ながら家庭やこれまでの経験で形成された自己のなかの意識を変えることは難しいです。元来、人間は変化を恐れる生き物だからです。ですが、苦しい現状を打破したい、という想いがあれば人生はいくらでも変えることができると私は信じています。時代も自己実現ができるように変わってきてくれています。苦しい時は「なぜ苦しいのか」を自らに問いかけ、丹念に答えを紡ぎ出していく。そして時には自らの居場所を変える、という思い切った選択肢も必要だと思います。自分だけではきつい時は周りの人のサポートも大切です。丑松もお志保も周りの人の協力があって救われたのです。ここにはプライドも理由も他者への弁明もありません。「自分の幸せ」だけが絶対的な動機なのです。

 

 

本書の著者である藤村も壮絶な家庭環境に生きた人と言われています。彼の人生における経験が『破戒』という毒自性をもった作品を生み出したといってよいでしょう。本書を読んでいると丑松の苦しみが、苦悩が、作者のものとさえ錯覚してしまいます。いや、大部分がそうであると思われるのです。

 

 

 百聞は一読に如かず

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

 

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今日の一曲♪

 

『ふわふわ時間』(2009)

(歌:放課後ティータイム 作詞:秋山澪 作曲:前澤寛之)

 

澪ちゃんがボーカルのバージョンの方が好みだけど、語りの部分は唯ちゃんがいいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

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