ポテサラ論争や冷凍餃子論争なるものがあるようですね。恥ずかしながら私は先日、その中身を知りました。

 出来合いの料理や冷凍料理に愛はあるのか。正直、この問い自体が愚問だと思います。料理は日々の生活の一場面です。それは日々続いていくものです。であるから、ある1日のある食卓を切り取って、それに対して「愛がある」とか「愛がない」とか議論することはないのです。要はバランスです。手料理を基本とし、ところどころ出来合いのもので「手を抜く」。そうすることで「自分」というものを保っていくのです。これは人生の本質ではないでしょうか。

 ですから、今回の騒動が「手料理 VS. 出来合い」の2項対立に拘泥しているのはもったいない。もし、夫婦の間でギクシャクがあるのなら、それは料理以外のところに、具体的には夫婦間のコミュニケーション不足、お互いの頑張りの理解の差、支え合い、が足りていないということです。今回の論争はこれらの問題の一症例に過ぎません。心当たりがあるのなら、これを機に家庭内を顧みてみるべきでしょう。

 

 

うらみわびの「この映画がおもしろい!」。第7回。

 

 

 

勝手に評価表

ストーリー

☆☆☆☆

アクション

☆☆☆☆

感動

☆☆☆☆

 

 

 

Time waits for no one.

↑↑ハァ?

 どんな映画?

 本作の原作は筒井康孝 先生の同名の小説です。作品で驚いたのがこれ、1965年に世に出た作品なんです!タイムスリップを題材にし、かつ青春、恋愛、学園ものというライトノベルを今から約50年前に出していたとは、まさに時代の先取りですね。あらすじを見ていきましょう。

 

 本作の主人公、紺野真琴は東京の下町に通う高校2年生。普段は津田功介や間宮千昭(ちあき)といった男子生徒とキャッチボールをしたりして過ごしている。将来の予定や進路については別段決まっていない。本人曰く、頭は良くないが成績は悪くはない、らしい。そんな真琴はある日の放課後、学校の理科準備室で人影に驚き、倒れこんでしまう。その衝撃でなんと彼女はタイムリープ(時間を移動する)の能力を得てしまう。

 

 

 

 ここに注目!

 時間移動を扱った作品はその祖のH・G・ウェルズなど、かつてよりありますが、結末は決して明るくないんです。どうやら時間を元に戻したり、先延ばしたりすると現実世界の事実関係に齟齬が生じたりとか、歴史が改ざんされちゃったりとかして、とにかく都合が悪い。私が初めて見たタイムリープものは『ハリーポッターとアズカバンの囚人』でしたが、あれも「もうひとりの自分と遭ってはいけない」という厳しい掟がありました。

 そして「未来」というのも大きなテーマなのですが、時間移動を扱った作品、例えばH・G・ウェルズの『タイムマシン』に出てくる未来は、文明は発達しているかもしれないですが、見た目は決して豊かではないんです。つまり、未来が否定的に描かれているということ。

 一方、この作品はそれも含めてかなり肯定的に描かれています。時間を行き来することで限られた時間を何倍も楽しんじゃったり、誰かの恋愛を成就させてあげたり、とにかく内容が明るい。そんななかでも以上のような時間移動の諸問題を扱っている点にも注目です。果たして真琴は問題なくタイムリープを使いこなすことができるのか。

 

 本作は原作の『時をかける少女(1965)』の20年後の世界を描いた作品です。ニュージェネレーションってやつですね。注目なのが、原作に登場する芳山和子というキャラクターが本作にもちゃんと登場しているんです。彼女は真琴の叔母という関係です。同名作の時代を超えた共演にも注目です。

 

 

Hulu

作品の配信が終了していることがあります。

 

 

 

ここからはネタバレを含みます。読み進める際にはご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「未来で待ってる」

 時間移動して元の世界に戻ってこれないことがままにあるけど、本作はタイムリープに回数を設けた。そしてその回数が最期に1つ増えた、という展開が熱いですね! そして、千昭が未来人だなんて気づかなかった。どこかで伏線とかあったのかな? 

 そして千昭が最後に言った言葉、「未来で待ってる」の真意とはなんでしょうか。「未来に来い!」ということなのでしょうか。正直、私の中ではピンときていません。

 

 

 未来の世界について

 本作では千昭の口から未来の世界について語られます。どうやら未来の世界は人口が少なく面白みに欠けるそうです。この点ではウェルズの『タイムマシン』に通ずるところがあります。この点が示すところは「人間の成長の限界点」である、と私はみています。技術の発展と私たちの幸福という2つの軸で見たときにその最大値はあるのか、というのが1点。そして、もし最大値があるのなら、私たちはどの程度まで成長していけばよいのか、というのが2点目の疑問になる。かつて私が大学の教授から聞いたのは、映画『デイ・アフター・トゥモロー』に出てくるエイリアンは実は未来の人間、という説。このエイリアン、めっちゃ強い戦闘機に乗ってるけど本体はワンパンなんです。つまり、技術の進化は人間の弱体化につながる、ということ。これは生物学的にみれば、パソコンをより早く扱うために腕が増え、移動手段が豊富にあるため足は弱体化する、といったように納得がいく。

 しかし一方で、人間の幸福の観点から考えたときにこれで本当にいいのか、ということ。私はなんともやるせない気がする。人間はある種、困難に対して挑戦している時に幸福を感じるのであって、その先の結果には幸福を見出さない動物だ。簡単にクリアできるゲームは面白くない。なんでも叶えてくれる存在は人間にとってはじつは不都合な存在なのではないだろうか。

 

 失敗から生まれる幸せ

 そう考えると、本作のタイムリープは興味深い。真琴は自身のタイムリープの能力をカラオケを無限延長したり、食べられなかったプリンを食べたりと幸福の為に利用した。しかし、実際には自分の他の誰かが犠牲になったり、人間関係がギクシャクしたりとうまくいかない。結果としてタイムリープはトータルで幸せになれる手段ではないのだ。

 現実で考えるとそうだろう。タイムリープできる世界は言い換えれば「いつでもやり直しが利く世界」だ。仕事でも恋愛でも失敗したらやり直せばいい。でもそこには成長はない。成長は失敗から生まれるからである。例えば、恋愛の場合、ある一つの行動がきっけかで別れる寸前まで行ったとする。そこで過去に戻ってまた新たに行動したとしても、本人がそこから学ばなければ何も進歩がない。どこかの未来でまた破局の危機が訪れるだろう。おそらく依然と似たような理由によって。

 人間は創造性をもった生き物である。失敗を糧とすることができる。そして、失敗したとしても後戻りできない、という人生の絶対条件。それこそが人生に彩を与えてくれるのだ。長く続いたカップルは思うだろう。「よくここまで共にこられた」。そこには成功も失敗もある。破局のリスクだってある。それを総括して幸せなのである。

 

 

 

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今日の1曲♪

『一番の宝物』(歌:LiSA 作詞:麻枝准 作曲:麻枝准)(2010)

人生において理不尽なことがある。何が起きても、現地はマイナスではなくてゼロと考えたほうがいいんだよね。

 

 

 

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