【潜在】第7展示室

【潜在】第7展示室

好きなバンドマンの文章を読むアカウント。これらのすべては下書きです。

 


つきのふね/森絵都 著

講談社(1998年)

 

小学生ぶりに読みました。

この物語は私が生を受けた1998年が舞台なのですが、今思えばこの本こそが「ノストラダムスの大予言」の存在との出会いという、今の私にとって重要な意味を与えてくれた一冊だったのではないかと思います。

 

「つきのふね」に描写される「ノストラダムスの大予言」は、登場人物が抱く思春期の未来への不安感の遠景のように存在しています。

 

私は「ノストラダムスの大予言」に影響を受けた世代のバンドや90年代の作品に惹かれることが多く、それはオカルトだからということよりも、信じるにしろ信じないにしろ、予言のような不確かな虚構が、広く受け入れられてあらゆる文化に取り込めた時代のパワフルさ……柔軟さ?に憧れがあるんだろうと思います。そんな話をします。

 


⭐︎小6で読んだ本って私に不可逆な変化をもたらした気がする
森絵都さんの作品との出会いは、「カラフル」(2010)の映画化でした。

テレビで予告を見て気になって、早速小学校の図書館で「カラフル」を借りて読んだ記憶があります。

 

映画は観ていない。あんまり気軽に映画行きたい!って言える環境じゃなかったから、映画を観に行きたいって思わなかったんでしょうね、多忙な両親に車で連れてってもらうだけでもう、一日が終わってしまうほどには田舎だったので。成田or稲敷。

「カラフル」を読んで、「リズム」と「ゴールド・フィッシュ」を読んで「アーモンド入りチョコレートのワルツ」と「宇宙のみなしご」のどっちかは読まなかったかな、そして「つきのふね」を読みました。2010年なので小学校6年生の夏に図書館で借りて読んだ記憶があります。


私の手元には、2012年に刷られた桜沢エリカさんのイラストが表紙の「つきのふね」があります。

これは、童話館ぶっくくらぶの選書で贈っていただいたものです。角川から文庫版が出ているけど、私はこちらの文芸書版の方が好きですね。学校で読んだのもこの表紙のものだったから嬉しかったです。

私の母は、自分の家に本が少なかったから子供には本を読ませてあげたい、と私が幼い頃から童話館ぶっくくらぶに入会していてくれました。毎月2冊ずつ本が届く環境にいました。

本が身近であったとて子供が本好きになるとは限らないと思いますが、おかげで日本語には不自由していないくらいの読書好きに育ったので、母にはとても感謝しています。(母の素晴らしさを目の当たりにするたび、自分の愚かさに打ちひしがれる)


童話館ぶっくくらぶがこの本を贈ってくださったのは中学生のときで、私はこの本が当時から好きだったから嬉しかったし、ふふーん中学生向けの本を私は小学生のときに読めていたぞふふーんという気持ちになった覚えがあります。

最近、月にまつわるものが好きだなと思って(「moon」や「ファミレスを享受せよ」の影響。大好きゲーム!)実家から持ってきて読み返してみました。

⭐︎読書感想文ってちょ~苦手なんだ
【あらすじ】
ノストラダムスの大予言の年が迫る1998年、14歳の鳥井さくらは、不良グループとの確執や親友だった中園梨利との関係に悩む中、とある出来事を通して知り合った24歳の戸川智に安寧を感じ、家に遊びに行くようになります。

梨利に好意を抱き、さくらと梨利の関係悪化を訝しんで理由を探っていた同級生の勝田尚純も、智の「仕事」に惹かれて家に入り浸るようになります。
智の「仕事」とは人類を救う宇宙船を作ること。以前から心の病を患っていた智は、次第に宇宙船作りにのめり込むようになり、自身を傷つけるまでに至ります。

ままならない梨利との関係、町で相次ぐ放火、そして未来への不安感が募る中で、さくらと勝田は智を助けようと動き出します。

万引きやドラッグ、学校からの逸脱の描写がありながらも、そこに描かれているのはどの時代の中学生が抱く可能性のある居場所のなさや未来への不安感。そして、この本が書かれたときより、きっともっと身近になった心の病への向き合い方。
学校や家族とか、身の回りのことに心を乱されながら、答えのない中で誰かのためを思って動く、健気なひとひらの純粋さに涙が出ましたね。
ヤングアダルト文学にあたりますが、人生って一生不安なので、この本はいつ読んでも心が震えます。読みやすいし。

登場人物に感情移入とか自己投影はしなかったんですが、それでも彼女たちの心情がするする入っていく。
私の中学時代を過ごした地元は、万引きできるようなスーパーもコンビニもなかったし、非行を助長させるような大人もいなかったし、ドラッグの危険性もなかった。そして智さんのような不思議な魅力のある大人と出会うなんて物語的なことも起きない場所だったので、小学生の私からしたら、異国の物語を読んでいる気分だったんじゃないかと思います。
でも、私も弱くて居場所に困っていた中学生だったから、ある程度のインフラとリソースがある場所に生まれていたら万引きだってドラッグだってやったかもしれないな、とも思います。


さくらの生きる日常として描かれている風景は、私にとっては異国だと思えるほど得難いものだけれど、私の生きた地元の、劇的な物語性のない倦んだ感じと、でも日々のタスクをこなして生きなければならない忙しなさの混じった中で生きることでしか得られないものがあったはずで、あれはあれでかけがえのないものだったね~って、大人になって思えるようになった……でもそれは、自身の実存に関わるような過酷さがなかったから言えることなのかもしれない。うーん。

あと、智さんは心の病としか描写されていなくて、小学生の私には不思議な大人のように見えたけれど、大人になると彼の気持ちがすごくよく分かってしまう。おそらく統合失調症や強迫性障害の一例なんじゃないかと今は想像できます。

1998年の時点で精神障害がどのような扱いを受けていたのかは想像するしかないけれど、今ですら理解の壁が……壁というか名前が付いて可視化されたことによる分断?がある話なのに、曖昧におかしくなってしまうのは誰にでも起こり得る、ということを描いている小説ってすごいんじゃないだろうか。


描かれている要素はドロドロしているかもしれないけど、登場人物が本質的に善というか、良い方向に常に動こうとしているから、この物語は光を放っているように思います。


児童書の、作者が伝えたいことを登場人物を透かして喋っているストレートな感じが、分かりやすすぎて避け始めた時期ってありませんでした?それで中学生くらいにはもう普通の小説とかに手を伸ばしたけれど、やっぱり年を重ねてから読むとこのストレートさって素直に響きますね。老いかも。

 

誰しも心に何かを抱えていて、それでもどうにか生きている。弱い心に生まれた人間は、それでも生きようとする強さも同時に持っている。

それでももう踏みとどまれない、生きていけない、と思ったときに、そばにある小さくて尊いものに目を向けていけたら、そして自分が誰かにとってそういう存在になれたら、と祈るようなこの本が大好きです。


で、この本を読み返して、今の私を掴んだのは「ノストラダムスの大予言」の描かれ方です。

⭐︎この本で「ノストラダムスの大予言」を知ったのかもしれない
この物語の舞台が1998年で、出版されたのも同年だったので、「ノストラダムスの大予言」が空気に混ざっているような印象を受けます。

さくらの回想の会話の中で、梨利とノストラダムスの予言の話をあけすけに語るシーンがあります。15歳で死にたくないとか、その前にセックスしてみたい、とか。


勝田くんは梨利が奔放な行動をとるのを、ノストラダムスの大予言が原因ではないかと推測するし、智さんが憑りつかれていた宇宙船を作って全人類を救う計画も、明言されていませんが時代の空気に混ざるノストラダムスの大予言が要因としてあったんでしょう。


これらって当時からしたらどれくらいリアルな心情だったんだろう。1998年に出版されている中高生向けの物語だから、きっと日本中でこんな場面は実際にあったんでしょうね。
私が中学2年生だった2012年にも滅亡の予言が取り沙汰されていて、私自身多分それなりに怖がって同じようなことを思った気もします。完全に信じてはいないけど、もしかしたら、ってどうしても気になってしまうような。

でも、彼女たちが本当に恐れているのはノストラダムスの大予言ではない。
さくらが怖いのは利己的な自分自身で、梨利が真に怖かったのも、やはり自分自身だったのだと思います。


私は万引きもドラッグもやらなかったけれど、この辺の梨利の心情は分かるような気がしました。

不良グループを抜けたいと言ったさくら、そのために行動できるさくら、万引きで捕まったときに梨利を巻き込もうとしたさくら。

さくら自身はそれを「裏切り」だと自分を責めますが、梨利にとっては、それは「真っ当な判断」として映ったのではないかなと思います。


その出来事を経て、親友と違い不良グループに属したままになっている自分は大人になれないのではないか、その恥ずかしさや寂しさやおそれは、名状しがたいけど、私にも分かるような気がします。


ノストラダムスの大予言は、それそのものが脅威だったのではなく、彼女たちの中にある思春期の不安を、破壊的な妄想で解消する微かな希望として作用していた側面があったのだろうな、と思います。

関連して、Plastic Treeの「1999」という曲が好きです。
今年、この曲が組まれたアルバムツアーのために、横浜と神戸、京都の公演に行きました。楽しかったです。

 


"1999年/素晴らしい未来なんてないって/なんにもない自分が嫌で信じてただけ"


アコースティックギターのアルペジオから、上記の歌詞の後にスペーシーな音で溢れかえるのが本当に宇宙に飛ぶように思えて気が遠くなります。
本当に恐れているものを口に出すことが、ここではないどこかへ行ける切符なのかもしれないと、この曲と「つきのふね」の物語は思わせてくれます。

 

 

⭐︎予言を別の形で実現しようとするエネルギーが尊いんだッ

○つきのふね
物語終盤の展開に関わってくるんですが、心の状態が悪くなっていく智さんの気を逸らそうと、勝田くんが古文書をでっちあげるんですよね。1998年の最後の満月の夜に母校の小学校の屋上で真の友が4人集まれば、月の船がやってきて宇宙船を作らなくてよくなるよ、という。


そして月の船は本当にやってくるので泣いたんですが(読んでください)、私はこういう、何か覆らない絶対があったとして、それをポジティブな方向へ捻じ曲げる構造が好きなんだと思います。

誰かのために生み出した虚構が、結果的に本当になって誰かを救う

 


私はバンギャルなので、す~ぐV系バンドを連想してすみませんなのですが、1999年のノストラダムスの大予言の存在に深く影響を受けているバンドとして私は「えんそく」と「THE NOSTARADAMNZ」が好きです。
両者の表現のベクトルはかなり異なりますが、彼らからは『終わらなかった世界でどう生きていくか』という通底する問いかけを感じます。世代的には後者の方が少し若いですかね。

 

○えんそく

 

 

えんそくはすべての楽曲、衣装、コンセプトに至るまでノストラダムスの大予言から来るイマジネーションの影響下にあって、彼らのライブの求心力というか、どんどんすごくなっていってますよね。

 

彼ら自身も言うんですが、自分の中にまだいる「コドモのわたし」に訴えかけられているような。

この、予言で終わらなかった、つまらないくだらないこの世界があるならば、楽曲の想像力で壊す姿勢が好きなんです。

 

曲を作ることで生まれた並行世界を幾度も旅をする……「えんそく」から帰らない、いつまでもノストラダムスの大予言を信じられたような悪童のままで。


先日の2025年11月15日にEX THEATER ROPPONGIでおこなわれたライブの1曲目「怪獣クモラの巣の町で」にて、アンゴルモアの大王の衣装を着たボーカルのぶうさんがワイヤーで吊られてMV通りに登場したのは本当にアツかったです。

「恐怖の大王」がやってきて「アンゴルモアの大王」を蘇らせたんだ!って錯覚させられてすごかったです。

 

○THE NOSTRADAMNZ

 

 

THE NOSTRADAMNZについては、好きであるゆえに視線が偏っていることはご容赦いただきたいんですけど、彼らのバンド名のノストラダムスは「恐怖しつつもワクワクしたような、少年少女のときめき」の象徴として据えられているのがキーだなと思います。

だから彼らの音楽は走り出したくなっちゃうような衝動のようなパンクロックを主軸にしながら、生と死が流転する終わらなかった世界で生きるうえでの怒りを、猥雑に不謹慎に暴力的に、光をまとって歌えるのだと思います。

 

彼らの曲の中でも明確にその西暦を冠して四半世紀後の2024年にリリースされた「1999」という曲が大好きです。なんていい曲なのだろうと思います。

 

 

近年の彼らのスタンスを端的に示す曲として「IDWBYxxx」があると思います。

 

”せめてお前らが絶望しながら喜べる歌を俺がいくらでも歌って聴かせてやるよ。”

”さあ、勝負だ 馬鹿野郎。”

 

この歌詞というか台詞の、現状予言通り終わってしまっている世界の、その「終わらせ方」の方こそを歪めて変えてくれている感じ……絶対的な覆らない事実があったとて、より良い形に穿ってみせよう、という姿勢を感じるものに、私は胸を打たれるのでしょう。

 


○地球外少年少女
THE NOSTRADAMNZに明確に好きになる直前に、ドドド・ハマりしていたのが「電脳コイル」の磯光雄監督作品「地球外少年少女」でした。

エンタメSFのポップさの中に、現在と地続きの技術と社会性を内包している傑作アニメ。大好き。

 

 

「セブンポエム」という予言が出てきます。

知能崩壊を起こしたAI「セブン」が死ぬ直前まで出力し続けた意味不明な言葉の羅列、「セブンポエム」。これを予言であると解釈する言説が、物語の鍵になっています。

それは「人類の36.79%を殺処分するべき」という内容。最高知能のAIが叩き出した答えって絶対なんですよ。しかしこれも「つきのふね」の結末と同じような形で本当になるんです。感動しました。(観てください)

 


⭐︎「1999展」は同じ刺さり方をしなかった

 

 

今年、六本木ミュージアムで開催されていた1999展、ホラー好きだし背筋さんも関わっているし、何よりタイトルに惹かれて行きました。

 

大時計とか産道の美術表現とか、あと客が何人かまとまってあの展示を見ていく感じが面白かったし、ライフヒストリー的な記述は重要な時代の証言だと思って読んだし、生きるためにオルタナティブな生(虚構)が必要というところにはすごく共感しました。

 

でも「1999」とそれらが結びつかなかった感じがありました。

それはあくまで、「私の思い描く1999」ではなかったんだなと思います。

 

1999展では「終末の少女」が世界の終わりに誘ってくれるんですが、いや、世界の終わりのような転換点って、待ち望んでいる者に他者から天啓のように与えられるものじゃない、って思ったんです。

だって、私が列挙したバンドや作品から教えてもらったのは、自らの足で自分が見えている世界を不可逆にぶっ壊していく力。


1999年が結びつく時間軸は「存在しないあの日」ではなく、あの日からずっとくすぶり続けて痛み続けながら生き貫いている今現在だと思います。現在完了進行形の時制。

だって私たちは、終わっていると吐き捨てて諦めてしまいそうな世界で、何度も終わりかけながら、生きている。



だから、世界の終わりを誰かに見せてもらわなくても、私は大丈夫。

 

 

最近のホラーって近過去のレトロの質感を使うじゃないですか。ビデオテープとか。

90年代のレトロとホラーの相性って現在時点から見ると扱いやすいんだろうなあとも思います。怖さと結びつきやすい。

生成AIにはSF的怖さはあれど、質感の怖さはもう出せないでしょう。不気味の谷を超えてしまった。


あと気になったのが「こんな世界滅びてしまえばいい」という嘆きの受け皿としてノストラダムスの大予言が再解釈されているように見えました。

これは、「生まれてこない方がよかった」の器として反出生主義が人口に膾炙している構造とも似ている気がします。


 

まだ上手く言語化できていない気がする。

ほんとになんていうか、人間が誰かのためにやる虚構が好きなんだなと今年気付きました。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。