【後編】

 

第4章 フォースと聖性の世界観

4-1. フォースと日本的宗教観

4-2. ダークサイドとバランスの思想

4-3. 黒澤明とスター・ウォーズの感性

第5章 ダゴバと伊勢神宮

5-1. 制度化された聖性としてのジェダイ聖堂

5-2. 現役のピラミッドと、観客だけが知る終焉

5-3. ジェダイ聖堂に対するダゴバ性

終章 スター・ウォーズと解釈の外側で

 


※後編はこちら

 

 

 

 

 

 

 

  序論 スター・ウォーズの基本構造

 

スター・ウォーズは、1977年にジョージ・ルーカスによって公開された映画『スター・ウォーズ』(後に『エピソード4/新たなる希望』と改題)を起点とする、一連の映画シリーズである。1977年公開の一作目は単独の娯楽映画として成立しつつも、その成功を受けて前日譚・続編が制作され、現在では複数の三部作とスピンオフ作品から成る大規模な物語群を形成している。

本シリーズの特徴の一つは、公開順と物語内部の時系列が一致しない点にある。最初に公開されたのは物語上の中盤にあたるエピソード4であり、その後に続編(エピソード5・6)、さらに前日譚(エピソード1〜3)が制作された。現在では全9エピソードと複数のスピンオフ作品が公開されている。この構造により、観客は「結末を知った上で原因を目撃する」という、通常の物語とは異なる視点を与えられることになった。以下の文章ではシリーズ名スター・ウォーズとの混同を避けるため公開年を合わせて一作目を『スター・ウォーズ(1977)』又は、単純にep4と呼称する。他の作品をep1〜9と呼称する。

 

 

▶スターウォーズ・サーガを構成する9本の映画ポスター。1977年公開の第一作『スター・ウォーズ』は、2段目左に配置されたポスターに該当する。新三部作(ep1~3)は1999年より、続三部作(ep7~9)は2015年より公開が開始された。

 

 

 

スター・ウォーズの物語は、オープニングの前に「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」という定型句から始まる。この一文が示す通り、本シリーズは未来の地球や人類史の延長としての宇宙を描いてはいない。舞台は地球とは無関係の銀河であり、そこには独自の歴史、文化、政治体制、宗教的制度が存在する。この設定によって、物語は現実世界の科学的制約や歴史的因果関係から一定程度切り離され、より自由な象徴表現を可能にしている。

次に、スター・ウォーズの世界観の説明を行う。世界観の銀河には複数の惑星が存在し、それぞれが異なる環境条件、社会構造、文化的背景を持つ。砂漠、森林、都市惑星、荒廃した湿地など、極端に異なる風土が並置されており、これらは単なる舞台装置ではなく、登場人物の行動や価値観に影響を与える要素として機能している。

この銀河社会には、「フォース」と呼ばれる不可視の力が存在する。フォースは宇宙に遍在するエネルギーであり、一部の存在はそれを感知し、利用することができる。フォースの扱い方を修練する集団としてジェダイが、またその対立項としてシスが描かれるが、いずれも単なる善悪のキャラクターではなく、フォースとの関わり方の差異として位置づけられている。

フォースにはライトサイドとダークサイドという二つの側面が存在するが、これは厳密な二元論というよりも、力の使われ方や向きの違いとして示される。ジェダイは秩序と調和を重んじ、シスは欲望や支配を通じて力を行使するが、両者は同一の力を共有しており、完全に分離された存在ではない。この点は、後の章で論じる宗教観・倫理観・世界観において重要な前提となる。

スター・ウォーズはこのように、明確な舞台設定と単純な物語の枠組みを持ちながら、その内部に歴史、宗教、制度、空間表現といった多層的な要素を内包している。本章ではそれらの意味づけや解釈には踏み込まず、以降の章での考察に必要な最低限の前提として、その構造のみを確認した。

次章では、この作品がどのような性質を持つ物語なのかを、映画史およびSFというジャンルの観点から整理していく。

 

 

  第1章 銀河の神話

 

 

1-1. スター・ウォーズはSFではない

 

スター・ウォーズは、一般に想像されがちな意味でのSF(サイエンス・フィクション)ではない。そもそもSFとは、現実の科学技術を起点に、現時点では到達不可能な領域を論理的に拡張し、その結果として生じる社会・倫理・人間観の変化を問う表現形式である。この定義に照らすならば、『2001年宇宙の旅』がSFであることに異論はないだろう。キューブリックとクラークは、徹底的に机上の論理を積み重ね、現実の延長線上として宇宙開発を構想した。結果として、人類が実際に月面に到達する以前の時代に、極めて説得力のある月面映像を映画の中で提示してみせた。そこには「想像」ではなく、「仮説としての未来」が存在している。

 

 

▶1968年公開の映画『2001年宇宙の旅』のポスター。本作はSF映画の表現的・思想的基礎を確立した作品として評価されている一方で、難解とされる。

 

 

一方でスター・ウォーズは、その制作態度も関心の向かう先も決定的に異なる。ハイパースペース、フォース、ライトセーバーといった要素は、科学的説明を拒否するかのように存在しており、それらが社会にどのような倫理的問題をもたらすかはほとんど問われない。科学は思考の対象ではなく、物語を成立させるための前提条件としてのみ置かれている。この点において、スター・ウォーズはSFというよりも、むしろ科学の衣装をまとった別種の物語であると言うべきだろう。もし「本来の意味でのSF」を求めるのであれば、『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか』を挙げる方が適切である。この小説は、人間と非人間の境界、意識とは何か、共感とは何かを、テクノロジーの進化を通して問い続ける。この小説が提示するのはSFが突き詰められた先にあるのは、科学ではなく哲学であり、言い換えればSFは最終的に〈サイエンス・フィロソフィー〉へと収束するということである。その意味で、スター・ウォーズはSFではない。

 

 

▶SF小説の金字塔とされるフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るのか?』。後年、『ブレードランナー』として映画化される。本作は、SFが科学技術そのものではなく、倫理や存在論を問う文学であることを端的に示す代表例である。

 

 

1-2. スター・ウォーズはSFである

 

しかし同時に、スター・ウォーズは明確にSFでもある。ただしそれは、サイエンス・フィクションではなく、サイエンス・ファンタジーとしてのSFである。スター・ウォーズが語っているのは、未来社会の構造や科学の行き着く先ではない。それは善と悪、堕落と救済、父と子、権力と個人といった、人類が太古から語り続けてきた神話的主題である。ジェダイとシスの対立は宗教的二元論を想起させ、フォースは超自然的な霊性のメタファーとして機能する。重要なのは、ここで科学技術が「説明」ではなく「舞台装置」として使われている点だ。宇宙船やドロイドは、魔法や剣と同じ役割を果たしている。違うのは、それらが中世や神話世界ではなく、宇宙空間に配置されているという一点に過ぎない。ジョージ・ルーカス自身が神話研究、とりわけジョーゼフ・キャンベルの英雄神話論に深く影響を受けていたことはよく知られている。スター・ウォーズは、現代において神話が成立しうる形式を、科学的外観を借りて再構築した試みなのである。この意味でスター・ウォーズは、単なる娯楽映画でも、未来予測でもない。それは「現代の神話」であり、観客に教訓や価値観を手渡す叙事詩なのだ。

 

1-3. なぜSF的にも評価されてしまうのか

 

それでもなお、スター・ウォーズがSF(サイエンス・フィクション)の文脈でも高く評価されてきた理由がある。それは、この作品が虚構に対して異常なまでの説得力を持たせる演出力を獲得しているからだ。スター・ウォーズの世界では、技術の仕組みが詳細に説明されることはほとんどない。にもかかわらず、観客はそれらが「実在している」と直感的に理解してしまう。宇宙船の汚れ、機械のノイズ、ドロイドの傷、都市の雑多さ──これらはすべて、世界が長い時間をかけて使用されてきた痕跡として画面に刻み込まれている。この「使い古された未来」の感覚は、それまでのSF映画にはほとんど存在しなかった。スター・ウォーズは、科学的整合性ではなく、視覚的・空間的リアリティによって観客を納得させる。結果として、物語の神話性が損なわれることなく、同時にSF的世界観としても成立してしまったのである。これらは、第3章で改めて詳述することにしたい。ここでは、スター・ウォーズが「SF(サイエンス・フィクション)ではないにもかかわらず、SFとしても評価されてしまう」という、極めて特異な位置に立つ作品であることを確認するにとどめておく。

 

▶リアリティを追求した宇宙船の小道具の一例。画像はミレニアム・ファルコン号である。それまでのSF作品に多く見られた「清潔で未来的な宇宙船」像に対し、意図的に汚しや使用痕を与えることで、架空世界に現実的な時間の堆積を導入した点は革新的であった。

 

 

  第2章 1977年、物語の起動

 

スター・ウォーズを論じるにあたって、本稿において第1章で扱った諸論点以上に重要なのが、この第2章であると筆者は考えている。その理由は明確である。すなわち、1977年公開の『スター・ウォーズ』において世界観が確立されなければ、その後に展開されるスター・ウォーズ・シリーズ全体は存在し得なかったからである。

スター・ウォーズは現在、全九篇を中核とする巨大なシリーズ作品として認識されているが、その成立は決して自明なものではない。シリーズの広がりや神話的厚みは、後年になって付加・拡張された要素も多く含んでいる。しかし、それらすべての前提として、1977年の第一作において、観客が「この世界は実在する」と直感的に信じてしまうだけの世界観が成立していなければならなかった。

 

 

▶『スターウォーズ(1977)』公開時のポスター。神話を予感させる構図と象徴的な人物配置が印象的。

 

 

2-1. 1977年という時代背景

 

1977年に公開された映画『スター・ウォーズ』は、後年になって『スター・ウォーズ/エピソード4 新たなる希望』と改題されることになる。この「エピソード4」という番号は、単なる後付けの演出ではなく、作品成立の過程そのものに由来している。

原作者であり監督であるジョージ・ルーカスは、当初からスター・ウォーズを単発の物語として構想していたわけではなかった。彼が執筆した原案はきわめて長大であり、整理を進める過程で、物語全体が少なくとも全9篇に及ぶ壮大な叙事詩的構造を持つことが明らかになった。しかし当時のルーカスは、自身の企画が商業的に成功するとは考えておらず、複数本の映画を制作できるとは想定していなかった。

そのため彼は、物語全体の中から、単体の映画として最も娯楽性が高く、導入として成立しやすい部分を選び出す必要に迫られた。その結果として選ばれたのが、物語上の第4番目に位置づけられていたエピソードである。この作品は当初、単に『スター・ウォーズ』というタイトルで公開され、続編や前日譚の存在は明示されていなかった。後に続編が制作され、シリーズ化が進行する中で、1977年の作品は改めて「エピソード4」という位置づけを与えられることになった。

この成立過程は、スター・ウォーズが当初から完成された巨大フランチャイズとして計画されていたのではなく、一作目の成功そのものが、その後の物語拡張を可能にしたことを示している。

1977年という時代背景を踏まえれば、『スター・ウォーズ』の成功は決して自明なものではなかった。当時のSF映画は、主に熱心な一部の愛好者に支えられた「オタク文化」の領域に属するものと見なされ、大衆娯楽の中心的ジャンルとは認識されていなかった。SFは「難解」「観念的」「冷たい」といったイメージを伴い、興行的成功よりも思想性や実験性が重視される傾向が強かったのである。

1968年公開の『2001年宇宙の旅』は、その象徴的な存在である。同作は映画史上の傑作として高く評価され、半ば神話化されていたが、その受容のされ方は一般的な娯楽映画とは明確に異なっていた。観客は物語を楽しむというよりも、映像や時間感覚、哲学的暗示を「鑑賞」する態度を求められ、それはむしろ現代美術や実験映画の文脈に近いものだったと言える。

このような状況下において、SFを大衆映画のスケールで成立させることは、当時としては極めて異質であり、むしろ失敗の可能性の方が高い試みであった。SFは「考える映画」であって、「熱狂する映画」ではないという暗黙の前提が、映画文化の側に存在していたからである。

しかし『スター・ウォーズ』は、この前提を正面から破壊した。ただしそれは、従来のSF的手法を拡張した結果ではない。前章で論じた通り、本作はサイエンス・フィクションではなく、サイエンス・ファンタジーという別の形式を採用することで、SFを大衆娯楽として再定義することに成功したのである。

本作はSF的な舞台設定を用いながらも、難解な科学理論や哲学的思索を前面に押し出すことなく、明快な物語構造と視覚的スペクタクルによって、幅広い観客層の支持を獲得した。その結果、SFというジャンルは一部の愛好者のものから、大衆娯楽の中心へと押し上げられることになる。

さらに本作は、映画の成功のあり方そのものも変化させた。スター・ウォーズは単なるヒット作にとどまらず、後に「ブロックバスター映画」と呼ばれる商業モデルの先駆けとなった。ここで言うブロックバスターとは、興行収入だけで成功を測るのではなく、キャラクターや世界観を商標化し、玩具や関連商品を含む総合的な商業展開を行う映画の形態を指す。

スター・ウォーズでは、登場キャラクターがフィギュアや玩具として商品化され、それらが映画体験と並行して消費される仕組みが成立した。このキャラクター商品化の初期を担ったのが、現在は存在しないケナー社である。作品世界は映画一本の枠を超え、小説、ゲーム、後続映画へと拡張され、ひとつの「世界観」として自立していった。

今日の視点から見れば、映画のグッズ展開やメディアミックスは極めて一般的な手法であり、特筆すべきものには映らないかもしれない。しかし、それが1970年代後半に実現されたという事実は、スター・ウォーズがいかに画期的であり、娯楽の在り方そのものを変えた作品であったかを示している。またSFが大衆映画の代名詞となる過程には、1977年の『スター・ウォーズ』が果たした決定的な役割が存在している。

 

 

▶映画公開当時に発売されたケナー社のフィギュア広告。『Kenner』による商品展開は、スターウォーズを起点として映画・玩具・ゲーム・グッズが連動するメディアコンプレックス的市場を拡張させた。現在では一般化したこの商業形態の初期例である。

 

 

 

2-2. 一作目の物語構造の単純さ

 

1977年公開の『スター・ウォーズ』は、その物語構造においてきわめて単純である。善と悪は明確に分かれ、観客は迷うことなく物語の流れに身を委ねることができる。帝国軍と反乱軍という明快な敵味方の構図、圧政と抵抗という勧善懲悪の枠組みは、古典的な冒険譚の形式に忠実であり、複雑な前提知識を必要としない。

物語は砂漠の惑星タトゥウィーンから始まり、やがて宇宙規模の戦いへと拡張していく。この空間的スケールの拡大は、観客の視野の拡大、すなわち主人公ルーク・スカイウォーカーの成長過程と重ね合わされている。無名の少年が日常を離れ、旅に出て、師と出会い、試練を経て自らの役割を自覚していくという構造は、神話や昔話に見られる典型的な型である。

この点において、『スター・ウォーズ』は極めて「おとぎ話」に近い。物語は直線的で、感情移入の対象も明確であり、年齢や文化的背景を問わず、誰でも理解できる構造を持っている。重要なのは、この単純さが未熟さや浅薄さを意味していないという点である。むしろ、この王道的で明快な構造こそが、観客を物語世界へ無理なく導くための基盤として機能している。

 

 

▶ルークが夕日を眺める象徴的な場面(『スターウォーズ(1977)』より)。

 

 
 

 

2-3. 単純さの裏に潜む「過剰な厚み」

 

『スター・ウォーズ(1977)』が単純な物語として完結している一方で、その背後には驚くほど過剰な世界設定が潜んでいる。映画本編では詳細に説明されることのない歴史、政治状況、宗教的背景、異種族間の関係性などが、断片的な情報として画面の隅々に散りばめられている。

観客は、ジェダイという存在やフォースの性質、かつて存在した共和国の崩壊について、体系的な説明を与えられることはない。代わりに、登場人物の何気ない台詞や、建築物、衣装、道具の使い込まれ方といった視覚的・聴覚的要素から、過去に積み重ねられてきた歴史の存在を推測することになる。この「説明されない歴史」は、世界に奥行きと時間的厚みを与えると同時に、観客に解釈の余地を残す。

ここで重要なのは、深さが情報量の多さによってではなく、説明されないことそのものによって生まれているという点である。すべてが語られないからこそ、世界には余白が生まれ、その余白が想像力を喚起する。観客は受動的に設定を受け取るのではなく、断片をつなぎ合わせながら、自らの中で世界を補完していく。

さらにここで注目すべき点は、原作者ジョージ・ルーカスが、意識的に、あるいは無意識的に「説明の少なさ」という方法を選択していた可能性である。この点は、単なる結果論ではなく、制作過程を踏まえると一定の根拠をもって説明することができる。

まず前提として、世界観を説明するための「証拠」はすでに存在していた。映画制作以前の段階で、ルーカスの構想の中には、全9篇に及ぶ超巨大な物語と世界観が書き出されていたことが知られている。すなわち、『スター・ウォーズ(1977)』における語られなさは、設定が存在しなかったからではなく、存在していたにもかかわらず語られなかったのである。

この「語らなさ」は、意識的な判断と無意識的な制約という二つの領域に分けて考えることができる。

第一に、意識的な選択の領域である。当時の映画観客に対して、架空世界の科学体系や哲学、未知の力の理屈を過剰に説明することは、かえって作品を難解で内向的なものにし、「オタク的」な趣味の産物として受け取られる危険性があった。ルーカスはその点を直感的に、あるいは経験的に理解していたと考えられる。そのため、フォースやジェダイ、銀河の政治状況について詳細な解説を行うことを避け、物語の流れの中で必要最低限の情報のみを提示する「語らないスタイル」を選択した。この判断が、『スター・ウォーズ(1977)』における説明の抑制を一つの作法として定着させた。

第二に、無意識的、あるいは物理的制約の領域がある。1970年代後半の映画制作環境において、金銭的・時間的・技術的制約はきわめて厳しく、構想段階で描かれていた多くの場面や設定は、実際の映像として実現することが不可能であった。制作現場においても、ルーカスの構想を全面的に理解し、支持する人物はほとんど存在せず、半信半疑の状態でプロジェクトは進行していた。その結果、必然的に多くの説明や描写が削ぎ落とされ、物語は最小限の要素によって成立する形を取らざるを得なかった。

しかし、前述の通り、この説明の少なさは結果として大きな効果をもたらした。語られない部分が世界の余白となり、観客の想像力を喚起し、作品世界に奥行きを与えることになったのである。

対照的なのが、シリーズ成功後、およそ10年を経て制作された新三部作、すなわちep1〜3である。この時期のルーカスは、潤沢な予算、飛躍的に発展した映像技術、そして制作スケジュールに対する相対的な自由を手にしていた。これにより、彼は構想していた世界観を可能な限り「説明する」ことができる状況に置かれた。

しかしその結果、かつて作品の強度を支えていた「語らない美学」は崩れ、説明の多さが物語の流れに雑音として介入することになった。フォースや政治体制、歴史的経緯が過剰に言語化されたことで、観客が想像によって補完していた余白は失われ、世界はかえって平板なものとして知覚されるようになる。筆者は、この瞬間において、スター・ウォーズが本来持っていた魅力が、創作者自身の手によって損なわれたと考えている。

語らないことは、未熟さの表れではない。むしろ、語らないことによってのみ成立する美学が存在する。『スター・ウォーズ(1977)』は、その美学が最も純粋な形で機能していた稀有な例であり、それが崩れたとき、物語は急速に幼稚な印象を帯びてしまう。この対比は、スター・ウォーズという作品を理解する上で、極めて示唆的である。

 

 

 

  第3章 ブリコラージュとしてのスター・ウォーズ

 

本章では、これまでの章とは異なり、筆者自身の視点がより強く反映された議論を展開する。物語構造や神話論から一歩踏み込み、建築学的・意匠論的な観点から『スター・ウォーズ』の世界観生成の方法を分析する。本章の主題は、「創造」とは何かではなく、「参照はいかにして創造へと転化されるのか」という点にある。

 

3-1. ブリコラージュという思考様式

 

ブリコラージュ(bricolage)とは、フランス語で本来「手元にある材料を使って何かを作ること」を意味する。専門的な設計図や理論に基づき、目的に適した素材を新たに調達するのではなく、偶然そこに存在するもの、余剰となったもの、用途を失ったものを組み合わせながら、その都度意味や機能を立ち上げていく行為である。

この概念を理論的に位置づけたのが、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースである。彼は『野生の思考』において、ブリコラージュを「エンジニアリング」と対比した。エンジニアが目的から逆算して材料と構造を選び取る存在であるのに対し、ブリコルールは、すでに存在する素材や形式のストックを前提とし、それらの関係を組み替えることで新たな構造を生み出す。

建築学的に見れば、ブリコラージュとは「既存のものの再編集」によって空間を成立させる態度である。異なる時代の建材が混在する増改築、用途を失った構造体の転用、地域に残された工法や素材の折衷などは、典型的なブリコラージュ的建築の例である。そこでは、純粋な合理性や様式的一貫性よりも、「何がそこにあるか」「何が残っているか」が設計の出発点となる。

この思考様式は、近代建築が追求してきた普遍性や純粋性とは本質的に異なる。ブリコラージュは常にローカルで、歴史的で、偶発的である。そして重要なのは、それが「低次な代替案」ではなく、むしろ世界を深く観察した末に成立する高度な編集行為だという点である。

 

3-2. スター・ウォーズの意匠生成

 

『スター・ウォーズ』の意匠は、しばしば「独創的」「想像力豊か」と評される。しかし、その偉大さは無から何かを生み出した点にあるのではない。むしろその本質は、地球上に実在する無数の歴史・文化・技術・宗教的事象を徹底的に観察し、それらを分解し、再構成するという、極めてブリコラージュ的な方法論にある。

まず、帝国軍の意匠は「悪の組織」という抽象的概念を、具体的な造形へと落とし込むことに成功している。その背景には、ナチス・ドイツやローマ帝国に代表される全体主義国家のイメージ、すなわち統制された反復、個の抹消、権威の視覚化がある。整列するストームトルーパーの白い装甲や、巨大で威圧的な建築スケールは、ポストモダン的に再構成された全体主義の視覚言語と捉えることができる。

個別のキャラクター造形に目を向けると、そのブリコラージュ性はさらに顕著になる。ダース・モールの顔彩は、明確な公式言及こそないものの、日本や東アジアの民俗に見られる鬼・修羅・怨霊的存在の化粧と強く共鳴する。単なる「悪役メイク」ではなく、宗教的・儀礼的な恐怖を帯びた顔彩である点が重要である。

 

 

▶ep1に登場するダース・モール。顔面の彩色は日本的な鬼の表象を強く想起させる。

 

 

ダース・ベイダーの兜についても、特定の武将を直接的に参照したという確証は存在しない。しかし、ラルフ・マクウォーリーによる初期デザイン段階から、日本の武士の兜を想起させるシルエットが意識されていたことは制作史上知られている。

 

 

▶初登場時のダース・ベイダーとストームトルーパー。ダース・ベイダーの造形は武士の甲冑を思わせる垂直性と威圧感を備えている。ストームトルーパーは個性を消去した匿名的兵士像として描かれ、その名称はドイツ語の突撃隊(Sturmtruppen)に由来する。

 

▶ダース・ベイダーのデザインモデルの一つとされる伊達政宗の甲冑。

 

▶スターウォーズ世界に登場する武器ブラスター。未来的な外観とは裏腹に、その多くは第二次世界大戦期の実在銃器をベースにしたブリコラージュである。1・3段目が元となった銃器、2・4段目がそれらを再構成したブラスターである。

 

 

フォースの概念もまた、単一宗教の模倣ではない。人格神を持ち、戒律と救済を中心とするキリスト教・イスラム教・仏教とは異なり、フォースは自然に遍在し、善悪を内包した力として描かれる。この性質は、むしろアニミズム的世界観や神道的自然観、例えば山や森、流れの中に力が宿るという感覚に近い。フォースは信仰の対象というより、感じ取り、調和するものとして設定されている点が特徴的である。この論については詳しく後の章で後述する。

建築的意匠においても、同様の参照と再構成が見られる。ジェダイ聖堂は、その巨大な列柱や垂直性、宗教と権力の結節点としての配置から、古代エジプトの神殿建築、とりわけルクソール神殿やカルナック神殿を想起させる。一方で、タトゥイーンの住居は、実際の撮影地(チュニジア)である北アフリカの集落に見られる土着的・機能的な泥土建築と強く共鳴している。観光化された建築ではなく、「生活の痕跡が残る住居」をそのまま異世界に転用している点が重要である。

 

 

▶北アフリカ・チュニジアに見られるドーム型の伝統的土着住宅。

 

▶『スターウォーズ(1977)』に登場するルークの家。上の現実建築と強く共鳴する形態を持ち、建築的ブリコラージュの具体例である。

 

 

ライトセーバーについても、1920年代のカメラ用フラッシュハンドルをベースに制作されたことが知られている。ここでは未来的な武器をゼロから設計するのではなく、すでに存在する工業製品を転用し、最小限の加工によって「未知の武器」へと変換している。この操作自体が、ブリコラージュの実践である。

 

 

 

▶ライトセーバーのブリコラージュ前後の比較。

 

 

さらに象徴的なのが、ミレニアム・ファルコンの模型制作である。撮影用モデルには、日本製の第二次世界大戦期戦車のプラモデルのパーツも含まれていた。日本のプラモデルは精密さで評価が高く、その過剰な情報量が、船体表面のリアリティを生み出す装置として機能した。

 

 

▶ミレニアム・ファルコン号の撮影模型。巨大なモデルを手作業で制作し、ブルースクリーン合成によって撮影された。デジタル技術以前の物理的制作が、質量感と現実味を担保している。
 

 


3-3. 参照の消失と世界の自律化

3-1で論じたブリコラージュは、既存の素材や形式を編集する思考様式であり、3-2ではそれが『スター・ウォーズ』の意匠生成においてどのように機能しているかを確認した。本章で焦点とするのは、参照が存在するという事実そのものではない。

スター・ウォーズの意匠は、多様な文化的・歴史的要素を素材としながら、それらを「引用」として提示しない。兜は甲冑を、神殿は古代建築を想起させるが、観客はそれらを特定の参照元として同定する必要を感じない。ここで行われているのは、参照の消去ではなく、参照性そのものを希薄化させる操作、すなわち〈脱色〉である。

この〈脱色〉を説明するため、比喩的な思考実験を導入する。都市の中に博物館があると仮定しよう。博物館という建築は、展示機能や文化制度、歴史や権威といった多層的な意味を内包している。しかし地図上では、それは一つの記号として表象される。その多くは、ギリシャ神殿型のファサードを簡略化した図像であり、「博物館であること」を即座に理解させるための符号である。

ここで言う〈脱色〉とは、博物館という実体から、この「地図記号としての博物館」を差し引く操作に相当する。制度や歴史を想起させる象徴的形式を後退させ、建築を、意味が確定する以前の、より未分化な存在へと引き戻す行為である。

このように参照が脱色された結果、観客はそれらを「何かに由来するもの」としてではなく、「その世界に最初から存在していたもの」として受け入れる。参照は意味を主張する段階を越え、物語と空間の整合性の中に回収され、世界の成立を支える背景条件へと後退する。観客は「どこかで見たことがある」という感覚を抱きながらも、その正体を特定できないまま、世界の存在を信じてしまう。

もしスター・ウォーズが、人類史と完全に断絶した超文明を描いていたならば、善悪や堕落、選択といった物語的主題は成立しなかっただろう。これらの主題は、既知の歴史的・文化的枠組みと接続されてはじめて共有可能なものとなる。

建築について考えれば、これは現代の建築家に見られる「新しさ」を前面に押し出す態度とは対照的である。重要なのは、何を参照するかではなく、それをどのように再構成し、どの時点で参照性を手放すかという判断である。参照を誇示しないことによってこそ形式は自立しうるという逆説であり、この態度は建築においてもなお有効な方法論である。


 

※後編(第4章)はこちら