『The Ten Shades Of Blues./Richard Bona』

 

地理が苦手だ。
高校生の時にテストで6点をとったほどだ。もちろん、「100点満点中の6点」ね。

僕は23歳ぐらいまで、日光は「四国の広島」にあるのだと思っていた。
ドバイはインドネシアかカンボジアあたりの首都だと。
世界地図で「ここはどこ?」なんて指さされてもサッパリわからない。いや、日本地図でも。
都道府県を全て挙げるのも無理だ。地図を読むのも苦手だし、方向音痴だ(僕はゲーム画面でも同じ場所にスムーズに戻って来れない)。鉄道や道路の名前も覚えられない。
行き当たりばったりで道を歩くことばかりなので(また、そーいうのが好きなんだわ…)、地図センスのある人からは同行を嫌がられる。

それでも、「知らない者の強み」ってのがあって、距離感をリアルに実感できない僕にとって世界は意外と狭いんです。
そーいう尺度で世界を感じてる。だから、地理に明るい人よりも遠出が億劫ではないのです。

無知は怖いモノなし。
これも一種の「知らぬが仏」。
英語だと「Ignorance is bliss.(無知は至福である)」。

世界の地理がダメなくせにワールドミュージックが好きだ。
基本的には【アメリカ方式】と【それ以外】程度の大雑把すぎる区分けがあって、【それ以外】が僕にとってのワールドミュージックなんです。
えと、だから、ジャズとかロックとかR&Bとかポップスとかの【アメリカ方式=「世界標準」(大衆音楽市場の中核であり基調)】の枠外にある音楽がワールドミュージックってわけです。雑でしょ。
地理上の特性とかは関係ない。言われてもよくわからないし。

アフリカもアジアもヨーロッパの音楽も「ワールドミュージック」の括りの下でひとつ。
実は、カントリーとかのアメリカ音楽もそこに入るし、また、歌謡曲もワールドミュージックだと思っている僕にとって、歌謡曲と韓国民謡は完全に陸続きで、そこを明確に区分する方が面倒くさい。

この「面倒くさい」を前提にすると、ワールドミュージックは何でも受け付けられるんです。ごちゃ混ぜのままで。

カッワーリとサルサとダンドゥッドとポルカと沖縄民謡とケルトとフォルクローレとメレンゲとクレツマーとピグミー族を一緒くたに聴いていられる。そこに境界線は無い。(アメリカとの大きな境界線があるだけ)
その集団にドヴォルザークなんかを入れてもいい。一部のクラシック音楽はワールドミュージックだと思うな。(ほら、区分けが雑でしょ?)

なにしろ【アメリカの世界標準以外の音楽】を全部お皿に盛ってワシワシと喰うのがいい。
体系づけて道筋を確定する前に聴いちゃう。地図なき暴走。
僕にとってエスニックはとっつきやすいですよ。無知だから。これも「無知の至福」。

エスニック料理も同じ感覚だなぁ。
トムヤムクンとピロシキとエスカルゴとゴーヤチャンプルとキムチとシシケバブとタコスとフィッシュ&チップスと蕎麦を一つのテーブルに集めて迷い箸をしながらワシワシ喰ってみたい。
  そーやって雑食リスニングでワールドミュージックを聴き散らかしてきた。

90年代のワールドミュージックブームでは、ヒップホップやハウスミュージックのフィルターを通して「ネイティブなエスニック音楽」を「世界標準型」に加工する流れがあったでしょ。そのせいで、どの地方の音楽でも最終的な質感が同じだった。
そのせいもあって、世界各地のエスニック音楽は僕にとってますますとっつきやすかったし、区分けの必要がなかったですね。更に地図が狭くなった感じで。

あのブームから、もう20年以上も経って、僕は「標準化されないネイティブなエスニック音楽」も聴いているのだけれども、いまだに雑食リスニングのままだ。

例えば、こんな感じ。* ネイティブな民族音楽って同じエリア(例えばバリならバリ)で数曲聴くと同じに聴こえてくるじゃないですかぁ。
それが、どーも僕は面白くない。お勉強をさせられているみたいで。(ワールドミュージックって「お勉強」っぽい側面があると思うぞ)* だから、僕は世界各地の音楽を雑多に集めてオムニバスに編集しちゃう。それで、雑多に聴いちゃう。
地図に沿って音源を並べる能力が無いから感覚的に気持ちのいい並び順で。

地理に無知な人間にとっては、そーいうインスタントな世界一周旅行が簡単に展開できちゃう。航路はメチャクチャなんですけどね。

リチャード・ボナの『ザ・テン・シェイズ・オブ・ブルース/リチャード・ボナ』(2009)を初めて聴いた時は、僕が編集したオムニバスかと思った。

各地域のワールドミュージックが国や地域を選ばずにゴチャ混ぜになって羅列されている感じ。
そそ、インスタントな世界一周旅行
バングラ風もアフリカ風もカントリー風もレゲエ風もカリプソ風もカントリーやゴスペル風もゴチャ混ぜだし、民族楽器とエレキベースやホーンやシンセが当たり前に共存してるセンスもオッチョコチョイで好感が持てる
コイツも地理音痴に違いない
【90年代のワールドミュージックブーム】が一人のアーティストの中でシャッフルされカタログ化されたような感じ。

この人の歌い方がアフリカマナー(と僕には聴こえる)だから完全に【非アメリカ】と認識されるわけだけど、これをスティングやポール・サイモンが歌ったら「薄口のエスニック風味の洗練音楽」になっていたはずだと思う。
楽曲の指向性を理論的に定義しているみたいなところがあって。ほら、カタログ的だからさ。
だから、このアルバムはネイティブエスニック音楽に比べたら軽率な印象はありますね。

そーいう「薄口の洗練音楽」の特徴が顕著ではあるんだけれども、

リチャード・ボナの歌声の「優しさ」がエスニックなんだなぁ。

ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンみたいなコブシも、サリフ・ケイタみたいなアフリカンスタイルも見事に歌いこなすテクニシャンなのだけど、なにしろ優しいんだ、声とニュアンスが。
演奏も優しい音だ。気持ちいい。
気持ちいいけど、ニューエイジ的なアプローチのワールドミュージックとは違う。
ヒーリング用途オンリーじゃないね。もっと肉体性が強くて、だから、アフリカ風楽曲のハチロクのリズムなどはすっごくタフで、そう、「踊れる」感じがバッチリありますね。

ワールドミュージックとしてバラエティがあって、演奏は上手いし、歌唱も上手くて優しいし…と文句のつけようがないアルバム。

アルバムの出来があまりに良かったので、リチャード・ボナのことを調べてみた。
僕、この人のことを全然知らなかったので。

bonaえっ! この人、すごい人だったのネ!
カメルーン出身のベーシストなんだ!(カメルーンがどこか僕にはわからないけど…)

はぁっ?
ジャコ・パストリアスの再来だって~?
いや、このアルバムのベースって「普通に上手い」ってレベルじゃね?…っつって聴き直したら…
わー、三曲目のイントロのベース、すげー!
YouTubeにはもっと凄すぎるベースプレイが落ちてたわ。
いやはや、お見それいたしました。

リチャード・ボナのことを全く知らなかった僕は、当然、ボアが「ジャコ・パストリアスの再来」と称賛されるベーシストだということも知らず、「オッチョコチョイ」だとか「地理音痴」だとか「軽率」だとか、言いたい放題でしたわ。 

それに、「ワールドミュージックを肉体的にシャッフルできる人」として、どちらかと言えば作曲家・シンガーとして感激させられたわけなのだけれども、いやはや、この人のベースの腕前を事前に知っていたら、僕にはこのアルバムが、まったく「別の印象」で聴こえたんじゃないかと思えるね。
あんなにリラックスして「気持ちいい」なんて言っていられたのかしら?

えっ? それはおかしくね?

情報の有る無しでリスニングの印象が変わるのは変じゃね?  

それを思えば、地理の知識ありきでエスニックを聴くのも印象に影響を与えるに違いないわけで…。
そーいう事前情報の弊害みたいなものをリチャード・ボナが粉砕してくれた感じ。
そのために、アルバムで地理感をシャッフルし、ベースの超絶テクを隠していたんじゃないだろか。

なんだか、僕の地理音痴が肯定された気分だ。
僕は地理に無知だったおかげで、軽薄なスタンスでフラットにエスニック音楽に接していたってわけですから。

いやはや、「無知の至福」。
知らないってことは時に無敵だ。

ところで、あの腕前を誇らしげに見せびらかさずに、このアルバムを作るリチャード・ボナの自制心こそが最もすげえと僕は思うよ。

リチャード・ボナ、もっといろいろ聴こうっと!

ジャズとワールドミュージックのどちらの枠組でリチャード・ボナを聴こうかな…とワクワクしつつ、僕には【アメリカの世界標準以外の音楽】と認識するのが精一杯だったのだった…。

雑食用の料理が一品増えた!
こんな時の僕はワックワクで幸福です。


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CDをラックにこれ以上増やさない!
図書館CDのヘビーリスニングを実践中!! ★☆★☆★☆★☆★☆★☆
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【コレ、聴いてみ!】
リチャード・ボナの絶技。ホントに人間か?俺、気持ち悪くなってきた…。
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そして、アルバム『Ten Shades of Blues』
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