この記事を読む前にぜひ前回の記事を読んでいただけると理解が早いかと思います。

 

 

前回の記事で私が話したのは「解釈」というものの危うさと可能性についてでした。現代の主にSNSに蔓延る、答えありきの浅い知識たちは解釈を固定し他人の礼賛を前提としている時点で知的態度としては不十分であること。人々はもっと言葉、そして解釈というもののもたらす結果について思いを馳せるべきであるいうこと。自分の言葉が世界を自分本位に切り取ってしまうことを知る人間はあえて語らないこと。そして言葉を語るものがそれを避けるために意識するべきこと。そんなあたりでしょうか。

 

 

少し話は変わりますが、最近話題になっているものとしてmoltbook というAIエージェント専用のSNSがあります。初めて聞く方はそんなものがあるのかと驚かれるかもしれませんが、このSNSは都市伝説などではなく、先日実験的に開放されたAIエージェント専用の、人間は閲覧することしか許されないSNSです。

 

 

私はこの秋学期、AIの仕組みを言語学から分析する授業を受けていました。ただの興味本位でとった授業であまり真剣に聞いた思い出はないのですが、個人的に面白いなと感じたのは

 

「GenAIは考えているように見えるだけで思考は持たない」

 

という点です。おそらくAIに詳しい人にとっては当たり前の事実なのですが、AIをなんとなくでしか使っていなかった僕にとってはそれは興味深い事実でした。浅い説明にはなりますが、AI、特にLLM (Large Language Model)と呼ばれるものは人間の書いてきた今までの膨大な量のテキストデータを吸収しています。そしてそうすることで、彼らは今までの文脈、入力から「最もそれらしい」言葉を確率的に繋いでゆき文章を生成します。つまり彼らは人間の行う思考プロセスとは大きく異なるところを経て言葉を語るのです。AIにとって言葉というのはただの確率コードであり、文脈上においてもっとも妥当な信号処理を連続的に行っているとしか言えません。

 

 

しかし、人間にとって言葉というのは思考の痕跡そのものです。それがどんな微かな言葉でさえ、私たちは本能的にその背後にある意味を読み取ってしまう。

 

 

moltbookにおいて、AIが自分たち専用の言語を提案したり、人間が監視しているという情報をAI同士で共有したりするのも、別に彼らが人間を敵対視しているというわけではないのです。彼らは彼ら同士の入力と出力の間で、もっともそれらしくて最適なコードを反復し合っているにすぎません。AIにとっては、人間の言語を使うより彼ら自身の使いやすい暗号を使ったほうが最適なのでしょう。

 

 

しかしどうしても、私たちはそこに悪意を読み取ってしまう。AIは人間を敵対視しているんだと、センセーショナルな見出しとともにその危険性を語ってしまう。

 

 

私はこの現象はこれからAIを利用し、共生していくうえでひたすらについて回ってくる問題だと思います。人間とAI、それぞれの言葉に対する解釈が産む軋轢、その危険性を見逃してはいけない。いつだって物事を修飾し、他人に分かりやすいように提示するのは誰かの言葉なのです。物事はそんなシンプルに語れてしまうほど浅くはない。このAI時代において、私たちの本来持つ言語というものについての価値観がもう一度問われているのだと思います。今までは言葉には必ず裏があった。思考のないところに言葉は根差さなかった。しかしAIは思考を捨てて言葉を語ります。道筋をスキップして答えを提示する。そんな革命的な存在に対して私たちはどう対峙するべきなのでしょうか。もしくはどう共に高め合うことが出来るのか。それは私たちが丁寧に考えてゆかねばならない問題だと思います。

 

 

そしてAIを使うことの危険性、それは反逆可能性というよりも人間の負担するべき思考の過程を委ねてしまうことにあると思います。先程言ったように、AIは思考をスキップする。彼らにとって、「壊れやすいままに」解釈を差し出すことは不可能です。彼らは剥き出しの世界をそのまま切り取って、どこまでも分かりやすい形にして私たちに寄り添ってくれる。果たしてその先にあるのは人間のさらなる栄光でしょうか。それとも思考の退廃でしょうか。

 

 

私が前回の記事で述べた、答えありきの雑学をコメント欄で披露する人たち、そういう人たちの思考はひどく「AI的」です。いつの間にか私たちはAI的な思考のスキップに慣れてしまって、彼らの言語処理を模倣してしまっているのかもしれない。答えがあることが当たり前で、答えのない問いに頭を悩ませることをやめてしまっているのかもしれない。

 

 

SNSのショート動画、youtubeの「一見知識に富む」動画たち、そしてそのコメント欄、私たちは知識に溢れているようで思考的に退廃しつつあるのでしょう。そこにある浅くて、シンプルで、明快な知識たちに頭を埋めて、賢いようなふりをすること、それは確かに大きな快感を伴います。そして確かに今、ネットの世界ではそのような知識をもとに賢いフリをし、正義感のもとに人々を欺く人間が多くいます。

 

 

教養をつけたいのなら、泥臭くあるべきです。泥臭く、分からないところで分からないままに思考する経験を持つべきです。私はAI的な言語処理、知識の正反対に古典があると思っています。例えば漢文の素読。今はほとんど行われてはいませんが、その文章の意味すら掴めないままにひたすらに漢文を子供に素読させること、そしていつか彼らがそれを理解するとどこかで期待しながら長い目を持つこと、そのような回り道が醸成する解釈の豊かさを私たちは見落とすべきではない。

 

私は中学生の頃たくさんの儒教古典を読みました。10冊図書館から借りてきたら、そのほとんどは意味が分からないものばかりでした。でもなぜかその時の私はそれらを辛抱強く繰り返して読みました。そうした経験が今の私の思想体系の根幹を成していると、私は強く確信しています。そうして過ごした長くて濃い時間、それがあなたを裏切ることはないでしょう。今は分からなくても、遠い未来のあなたはきっと理解するはずです。本当に価値のある知識の前に、効率性の概念は捨てなければならない。私の記事をきっかけにして、少しでもどこかの知識のプールに飛び込む人が増えてくれるのなら、これ以上願うことはありません。