戦プロにて主君を裏切り、謀反を起こした戦姫が登場する

謀反ガチャ」が実装されました。

 

そこで登場した豊臣家の重臣であったにも関わらず、

主家と決別し対立することになった戦姫「[逆心]片桐且元」。

 

今回は彼女について色々と語ったりしたいと思います。

 

 

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

 

まずは史実に基づいた彼女の簡単なプロフィールについて。

 

【名前】片桐且元(かたぎり かつもと)

 

1556(弘治2)年に誕生。

幼名を市正とし、その後は直盛、そして且元に改名しました。

 

『賤ヶ岳の戦い』では特に武功を挙げた『賤ヶ岳の七本槍』の一人とされ、

その後は主に行政の方面にて豊臣家を支え続けた人物です。

 

今回では秀吉亡き後のことについて書いていきます。

 

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

 

 

『逆心』という境涯を持っていることで、
あまり良いイメージを持てないかと思います。
 
しかし、彼女の境遇や立場を知ればまた見方が変わっていきます。

 

・関ヶ原の戦いが終わった後の且元

 

豊臣家の重臣となった後から徳川家康との交流のあった且元。関ヶ原の戦いが起こると石田三成率いる西軍に付きましたが、やがて東軍が勝利すると長女を人質として家康へ差し出しました。

 

勿論いざ早く鞍替えする為だという見方もありますが、

これは豊臣・徳川両家の調整を図るためだったと言われています。

 

以降は幼い豊臣秀頼の代行として政権を握った家康と協力する立場となりました。

これまでやっていた行政面だけでなく、寺院復興事業にも取り組みました。

 

上記の事業に関しては家康が豊臣家の軍資金を減らす為に提案しただけでなく、
元々は豊臣家の政策だったことも含め、公家の道しか残されなかった主家を守る為にやっていたと思います。

 

・方広寺鐘銘事件

 

そんな時に、『方広寺鐘銘事件』が起こります。
 
14年もの歳月をかけて方広寺の大仏殿がほぼ完成するところでした。
当初は何事もなく順調に事は進んでいましたが、突然家康から梵鐘に刻まれている銘文に問題があるとの指摘を受けてしまいます。
 
その銘文とは
 
「国家安康」
「君臣豊楽」
 
というものでした。
 
「国家安康」には諱である『家康』の文字を引き裂くことで呪詛と見なされ
「君臣豊楽」『豊臣家を君主として、子孫繁栄を楽しむ』という下心があると徳川方だけでなく、他の僧からも批難されました。
 
※当初は家康によるこじつけだったものと言われていましたが、そもそも当時では本人の許可を得ずに諱を用いること自体は不敬とされていました。何の意図が無いとしたら無神経、意図的に用いたのならば分をわきまえていない行動だと批難されても仕方ないことでした。 
 
銘文そのものを考えたのは且元ではありませんが、方広寺再建の責任者ではあったので
弁明の為に家康に会おうとしますが、本人との謁見は一度もありませんでした。
 
事態を重く見た豊臣家は、別の使者を派遣させました。
且元は家康との謁見は許されていないままでしたが、豊臣家が派遣した使者はすぐに家康と会うことを許され、加えて銘文のことも特に言及することなく丁寧に扱ってから送り返しました
 
しかし、且元には下記の3か条を要求されました。
 
・豊臣秀頼を江戸に住まわせること
・淀殿を人質として江戸に住まわせること
・豊臣家を現在の大坂から別の所領へ移すこと
 
これだけを見れば何故これらを要求されたのかすぐに理解はできないと思います。
しかし、これら3つの要求を受け入れるということは事実上徳川家の天下を認めてしまうということになります。関ヶ原の戦い以降は多くの大名が徳川家に付いたことで実質そうなっていましたが、秀吉の子である秀頼という存在が家康の天下に対しての脅威になっていたからです。

 

 

豊臣家の中心にいる人物とはいえ、
自分一人では決める事はできない且元はこの要求を大阪城へ持ち帰ります。

 

しかし、先に戻っていた使者によれば家康は特に問題視していないと聞かされていたところに且元が持ち帰った要求は当然のように難色を示しました

 

それでも且元は豊臣家を存続させる為に、徳川家の下に付いてでも条件を受け入れるべきだと説得しました。しかし、多くの豊臣方家臣から賛同を得られず孤立し、ついには内通を疑われ暗殺計画まで起こってしまいます。

 

 

・大坂城からの退去

 

自身の暗殺計画を知った且元は屋敷の守りを固めました。
その後も淀殿や秀頼からの説得もありましたが、遂には豊臣家を改易(現代で言うところのリストラ、仕えていた家での身分を無くし、その中で持っていた領地も没収される)し、そのまま大坂城を退去することになりました。
 
こうして且元という徳川家との橋渡し役を失った豊臣家は、
そのまま徳川と対立を深め、やがて大坂の陣へとつながります。
 

こういう時代背景があり、且元は主家との決別を選ばざるを得なくなりました。

なので『方広寺鐘銘事件』が大坂の陣を起こった一因だと言われています。

 

 

・大坂の陣

 

やがて『大坂の陣』が勃発。

帰る場所が無くなった且元は徳川家に付くしかありませんでした。

 

且元は家康から先鋒を命じられるも、主に徳川方を補佐する形で協力をしました。

 

真田丸の戦いでの敗戦や兵糧不足の問題で戦況が悪くなると、

家康は外国から取り寄せた大砲で淀殿のいる本丸近くへ砲撃させました。

 

皮肉にもその砲撃隊を指揮していたのは主家と決別した且元でした。

 

砲弾が本丸に直撃したことによって和解が成立。

そしてそのまま大坂冬の陣が始まると且元は隠居を願い出ましたが、

それを却下され前線の軍に従軍することになります。

 

大阪城が落城する際、且元の元へ秀頼と淀殿の生存と居場所の知らせが届きます。

それを徳川方へ報告し、助命を願い出るも叶わず、豊臣家は滅亡しました。

 

それから約20日後、主家の滅亡の後を追うように死去しました。

いろんな死因を提唱されていますが、どちらにしろ且元は最後まで豊臣家に仕えていたことがわかります。

 

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

 

ここまで片桐且元について真面目にいろんなことを語っていきましたが、

戦プロで実装された『逆心』という境涯を持った彼女に付いても語りましょう。

 

進化

神化

 

逆心』という境涯を持つことで、主家だった『豊臣家』から

徳川家』に変わるという初めての仕様にて登場しました

 

また、進化・神化した時の指揮能力や特技は彼女のことを由来したものが多いです。

 

特に神化が持つ特殊能力『御殿崩し』は兵種『』に対する特攻を持っており、

すでに登場している淀殿の兵種は『姫』なのでそれを意識したものだったのではと推測できます(攻城戦における専用特殊能力も同じく『御殿崩し』である)。

 

このようになでなでをして親密度をMAXにしても、

前の彼女では見ることができた笑顔を見る事はできなくなりました。

 

 

 

そんな彼女が登場するのは「謀反ガチャ」。

その名の通り、かつて仕えていた主家を裏切ったことで収録されましたが、
それには様々な事情や思惑が絡み合い、そして彼女をそうさせたことを理解できたら幸いです。何事にも理由があり、それを知る前に判断を下すのは早計だということも知って欲しくてこの記事を投稿することに至りました。
 
彼女含め”片桐且元”という人物をもっと知りたいというきっかけになれば、
また彼女のことを気に入った方には是非とも入手していただきたいです。

 

それでは。