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マジだみは、ミニだみという

一人娘と13年一緒に過ごして
きました。ニコ

そしてこれからも、
彼女とご縁がある限り

お世話し、お世話されながら
お付き合いをしていきます。
もぐもぐ

マジだみが育った家庭は
パワハラとモラハラとDV
の要素をちょっとずつ
取り入れた厳しいところ
でした。ぐすん

「親に口答えするな!」
「親に向かってその口の
ききかたはなんだ!」

という、漫画の親子会話での
あるあるなセリフで、
マジだみはしょっちゅう父に
叱られていました。

そのセリフを聞くたびに

「親というのは、そんなご大層な
ものなのかね?」しょんぼり

と心の中でドクダミくさく
つっこんでおりました。

で、マジだみは子どもを産んで
世間様から親認定され、世間様に
対して便宜上「親」という
言葉を使ってはいますが、

どうもマジだみは
父から刷り込まれた
「ご大層な親」
になった気がしない。
えー?

そもそも「親」ってなんだ?
うーん

儒教には
先祖や親を深く敬うという
習慣がありますが、それは

外敵から一族を守り
子孫繁栄を目指す。

という一族郎党の意識の統一を
図るための手段であり、
日々危険と隣り合わせの大陸
ならではの思想なんじゃないかと
マジだみは思っています。

この思想、日本の場合は
戦国時代や世界大戦時で特に
強く支持されたモノでした。

すなわち盲目的にでも
「親(目上)に従う」というのは、
危険にさらされた日常において
顕著に表れる人間の思考ではな
かろうかと感じます。

現代の日本においては
「明日敵が攻めてくるかもしれない」
という切羽詰った状況ではないので
(・・・と願ってます)

問答無用というか
当然であるかのように

「親に従え」
「親を敬え」

という考えを子どもに
押し付けるのは
とても違和感を感じるのです。

人に従う気持ちも
人を敬う気持ちも

本来なら自然発生的に
湧き上がる感情です。

それを儒教のいいとこ取り
というか都合の良い解釈して、
人間が人間を育てるのに
苦労せずして操ろうとするのは

怠慢だと思う。イラッ

子どもから従う気持ちや
敬う気持ちが欲しければ
そんな人間になれるよう
生涯をかけ て努力すればよい。
それは途方もない努力に
思えるかもしれませんが

まずは

目の前の色々な出来事に対して、
自分なりに誠実に取り組む。

周囲の人に敬意を払い、
謙遜の気持ちを忘れない。

親切にされたら感謝をし
失敗をすればごめんなさい
と言う。

それをたゆまず続けること。

子どもからの敬いの気持ちは
自分が周囲に発した敬意や感謝が
回りまわって、子どもから自分へ
もたらされるものだと思います。

逆に
自分から発した周囲への侮蔑や
恨みの念は、回りまわって
子どもや自分に繋がる
恐ろしい刃となる。アセアセ

子どもが自分を見つめる目のなかに
尊敬の色が垣間見えたのなら、
その時はじめて
「親」になれるのではないか。

「親」とは

子どもが
その人間に敬意を認めたとき、
その人間を信頼するに値すると
認めたとき、
初めて与えられる敬称だと

マジだみは思うのです。

今回は、思想と言うか
すこしスピリチュアルな内容で
考えてみました。
次回はサイエンスの観点から
考えてみます。

今日もくさくてごめんなさい。イヒ