どこからきて

どこへいくのか

どこにでもいくし

どこにもいかない





私たちは気持ちの整理をつけるためにどれほどの理由を必要としているのでしょう。


何かを選ぶためにそれが良い理由を必死に探したり、何かを決断するために誰かが悪い理由がどうしても必要だったり

それは今まで当たり前のようにそうしてきたけれど、理由よりも信じられる自分という存在を思い出してゆくたびに、理由づけることそれ自体が、根源とのつながりを失った状態であると知るはずです。



根源との繋がりを取り戻す中で

どこにいくのも

なにをするのも

この世界に理由なんて必要ないということがだんだんわかってきます。





古くても、新しくても、

安くても、高くても、

ブランドでも、ブランドじゃなくても、

会社員でも、起業家でも、

有名でも、有名じゃなくても

お金があっても、お金がなくても、

何歳であっても、

男でも、女でも、植物でも、動物でも、

都会でも、田舎でも

うまくいっても、うまくいかなくても

ただ、そうしたい──。





'私'がバランスする時、

愛しいあの人も、懐かしい声も、

草花のかおり、誇らしかった日の夕餉、

透き通った風、濃紺の闇、

使われなくなった部屋、

さよならした全てのものたち、

あの日の痛みも

全てを抱きしめることができると信じています。