ルバング島の小野田さん | 一攫千金⇒埋蔵金・山下財宝の情報

ルバング島の小野田さん

今回は戦後の最大の秘密の扉を開けます。


1974年に鈴木紀夫さんによって、フィリピン、ルバング島で発見された小野田少尉の事です。まだご存命でご迷惑だと思いますが、時期と思いここに私の情報を明らかにします。先ず、このブログをご覧になることは無いと思いますが、もし、ご覧になって私の情報が間違えであればご連絡下さい。間違いであれば素直に謝罪を致します。・・・・・・・でも私の情報は嘘と思えないのです。


通訳の三兄弟が居ました。戦後、フィリピンを訪れる遺骨集集団の通訳をしていました。彼等はミンダナオ、サンボアンガ出身の母親と日本人の父親との間に生まれています。母親は戦争中にアメリカ軍の流れ弾に当たって亡くなりました。一家は戦争が激しくなる前に日本に戻り、この三兄弟は戦後フィリピンに戻っています。この三人はフィリピンのタガログ語と勿論日本語が喋れました。次男はそれに加え、英語とフィリピンの方言に堪能でした。


この三人は揃って小野田さんが現れた時に通訳として活躍しています。日本の厚生省に雇われています。私は三兄弟三人と知り合いでした。長男と次男から当時の事を詳しく聞いています。


長男と次男の証言


二人とは別々に話を聞いています。二人は同じ事を言っていました。

「小野田さんはジャングルではなく町で暮らしていた。小野田さんにはフィリピン人の奥さんと娘さんが居た」

鈴木さんが最初にジャングルで接触したという話を否定しました。


この三兄弟のその後の話があります。長男はエルミタ地区に日本料理店を開きました。三男はアメリカに移住しました。次男はバギオのパインホテルにブティックを開きました。次男はその後数回日本に行っています。

次男から直接聞いた話です。日本である方にマッサージをする度に一束(百万円)頂いたそうです。在る方は次男にマンションの一室を与え、ある方の知り合いのマッサージをしたそうです。1回日本に行くと相当な額が手に入ったそうです。


次男は金塊の運び出しを手伝っていました。


もう一つこの証言を裏打ちする証言があります。私がルソン北部でトレジャーハンティングをしていた時の話です。私の仲間にフィリピンの退役したゼネラル二人とケーネルがいました。この三人とその地区に在る司令部に遊びに行きました。そこの司令官が彼等との友人でした。彼等の共通点は揃ってトレジャーハンターです。


私を含めた5人で山の中の司令部前で酒盛りが始まりました。この司令官は勿論ゼネラルです。マルコス時代に父親と二代、大統領親衛隊長(PSG)を勤めた方です。1974年、ルバングとの事件の時彼はマルコスの親衛隊長として働いていました。


私は酒が一滴も飲めません。私は彼等の為にビールを2ケースとポンタドール(フィリピンのウイスキー)を購入したのを覚えています。宴が盛り上がった所で私は彼に、何故、トレジャーハンターになったのか聞きました。


彼は「財宝を見てしまったからだ」と、答えました。尤もな理由です。


次ぎに何処で見たのか聞きました。信じられない答えだした。「ルバングアイランド」


運び出しに 7 days, days and nights かかったそうです。


通訳の次男は私が機関のメンバーと接触する手掛かりをくれた人です。


通訳三兄弟の長男と次男は以後もトレジャーハンターを続けていました。見てしまった人は止まりません。


私はルバング島には大量の金塊が隠されていてそれを小野田さんが守っていたと考えてしまいます。もう一つ、小野田さんが現れた時に再度命令を伝達した小野田さんの上官が居ましたね・・・彼は、フィリピンでは有名なトレジャーハンターでした。


その後の小野田さんの生活を考えて下さい。ブラジルに在る牧場の規模は?基金まで作った財力は?耐乏生活評論家の横井さんとは大分違いますね。


このオペレーションはマルコスと日本のS氏(ある方)の共同作業で行われたのは確かです。次男が証言しています。


S氏はK氏の親分です。機関のメンバーは殆ど亡くなりました。機関は実態として残っていないと思います。今残っている、機関に属していた人達も私以上にフィリピンにある金塊に関しての情報を持っている方は居ないと思います。


15年間、胸につかえていた物を、吐き出しました。スッキリしました。