いわゆる結婚を意識する年齢です
3年程前は「結婚は遺伝子因子的に欠損した完璧でない未熟者が補うためにするものだ」と信じて疑いませんでした
時は流れ現在。
失恋もし、病気もし、死を意識する場面にも遭遇して。
考え方は変わりました
ある意味、私は自分自身を受け入れました。
特別じゃないフツーな自分を。
今は誰かいっしょに人生を生きる相手がいてくれたらなと思います。
依存しあう関係でなく、支え合えるような。
私はこの人生で自分が描いたようなスペクタクルな展開は起こらないこと、起こせぬことを知りました。
そして起こそうとすら思わなくなりました。
そんなこんなで、いまは革新的な考えは影を潜め、当たり前のことを適当にして暮らしています。
今日は職場で「嫁に早くいけや!」と時代錯誤的な文句をいわれました
保守的な考え方をする人は科学的にも知能指数が低いそうです。
(あと浮気男も笑)
田舎という言葉で全てを片付けるわけじゃないけれど、やはり情報量の少ない場所で生活していると、他人が気になるみたいなんですね
そして己の価値軸で他者をはかりはじめる。自分の理解の範疇を超えた世界を生きる人々を異端と決めつけて、排除したがる。
全くもって、くだらない営みだ。
低脳かつ低俗な文化レベルの賎民と関わることが本当に疲れる。
だがしかし、悲しいかな、その場所に自分がいるということが、己の文化水準が低いということのなによりの証拠なのだ。
凝り固まった人と話すのは、壁にむかって話すよりも苦痛だ。
「故郷は遠きにありておもふもの。そして悲しくうたふもの。よしやうらぶれて異土の乞食になるとても、帰るところにあるまじや。」
私はこの街が好きだったけれど、今はとても嫌いだ。
ふるさとがふるさとたりうる所以は、「いつか魂がそれのみになったとしても帰着する」ところであるからなのであって、あまりに近すぎて密接的な場所、あるいは関係性を持ってしまったならばそれはもうふるさとではない。
単なる「場所」だ。
見放すことは、見限ることは己のふるさとを残すための最後の手段なのかもしれない。
人はなんて悲しいのだろう。
優しさも、微笑みも、幻だ。
だけど、その幻をつかまえて正体を明かせ!とつきつける方が無粋なのかもしれない。
幻を幻だろうと、罵って正義漢ぶる浅ましさみたいなものも愛すべきなのかもしれない。
とにかく「嫁にいけや!」という言葉は、くだらない言葉だと私は認識したのでした