妻は18時を少し回って帰宅した。
事情を説明し、エレベーター前での臨時役員会に挑んだ。
少し早めに降りてゆくと、なんと、滝井さんがもう来ている。
そして私の顔を見るなり吠えた。
「こんな、急な呼び出しは困るんだよ~!」
「なんかガジャガジャ言ってるみたいだなあ」
「三葉さんに任せとけばイイんだよ~!」
「うちは、ずっとそうしてきたんだから~」
さすがに私も、これには少しムッとした。
そもそも、あなたの奥様の「この議事録にはハンコを押せない」という一言から始まったのだ。
あなたは、そのことを良く知っているのではないのか。
あと、大声で威嚇しているが、二言目はボリュームを落とした。
これは、実は小心者の特徴だ。
さて、この面倒なタイプの人を、どうしようかと思いを巡らせ、そんなタイミングで、三葉の森さんが到着した。
「森く~ん、困るよ~。こんな急に呼び出して~~~」と、ソフトな言い方に変えている。
どうやら、なにやら、私を【敵】、と考えているみたいだ。
おかしいなあ、総会では、滝井さんの奥さんが一番、三葉さんに噛みついていたのに・・・。
19時になり、前回の総会出席者のうち、2名以外が集まった。
◆臨時役員会開始
「この臨時役員会は、共用部の保険についてです」
「共用部の保険は総会で保留になったはずのに、管理会社の三葉さんは更新だったと主張されています」
私の、この発言で臨時役員会を開始した。
「ここでの会話は、ボイスレコーダーで記録します。ご了承願います」
また滝井さんが吠える。
「なんだ、それは~!?」
「前回の総会が、【保留だった】と【承認された】というように、出席者の記憶が正反対になったのです。正確な議事録を書くために必要と判断しました」
「おお、おおお」
ちなみに私は、昔、超ブラック企業でもまれていたので、大声を出す人にひるんだりはしないんです。
慣れてるんです。
我がマンションは、このような会議は管理会社に任せきりだった。
当然のように、毎回、森さんが司会を務めていた。
しかし、私が司会を行った。これが本来なのだという思いからだった。
そんなことも、滝井さんは気に入らないのだろう。
◆総会では保留だったのか、更新承認だったのか
「三葉の森さん。この緊急の臨時役員会は三葉さんの要望です。経緯の説明をお願いします」
「え~っと」と森さんは話しだした。
2名が更新に承認したと答えたらしい。それはいったい誰だ!と追及したい気持ちを堪えた。
6名が<記憶が定かではない>と答えたと、森さんは言った。
要するに、保留だったと言っているのは私だけだと。
おかしいことだらけなのだ。
ならば、なぜに「ハンコを押せないと」前期の理事3名は言ったのか。
幸い私は、今期の理事長だ。
たとえ1人でも、「それは総会の決定と違う」という主張で、理事長印の押印を拒否できる。
奥の手は、私にあるのだ。
1つ1つ、三葉の、森さんの【嘘】をボイスレコーダーに残すのだ。
先々の武器になるだろう。
まずは、ハンコを押せないと言ったはずの、前期理事の見解を確認しようと思った。
だが、そのタイミングで綿貫さんが発言した。
「共用部の保険の話は、間違いなく【保留】でした。議長が挙手で決を採りましたから」
綿貫さんは、新築時からの組合員で、滝井さんより古株だ。
そしていつも冷静。誠実で真面目。
総会にも、ほぼほぼ出席する意識の高い方だ。
それでいて、我が強くないので、印象がすごく良いのだ。話し方もソフトなのだ。
そんな、人徳者の綿貫さんの一言で、【保留】が事実と認定され、この議論は必要なくなった。
◆保険料の違い
森さんは、話を【無保険期間】に切り替えた。
「この無保険期間に、万が一があると大変なことになります」と説明した。
私は、その場合は管理会社の三葉の責任と考えている。
・マンション管理のプロが、235万円もの高額な保険を、代案も用意せずに【更新】ありきで総会に臨んだこと。
・総会の2日後が満期だったこと。
・そのことを、保留という決が出たのに、総会で明らかにしなかったこと。
などなど、悪意がたっぷりある。
更新する予定だった保険の、代理店の担当者に、たんまりと接待攻撃を受けたのではないか。
そう勘ぐってしまう。
滝井さんがいう。
「そんなリスクがあるなら、いたしかたないな」
私は、用意した比較表を配った。
「これは、今回三葉さんが更新しようとしている保険と、条件を同じにして比較したものです」
A社:176万円
B社:154万円
C社:221万円
D社:235万円 これが三葉さんが勧める保険だ。
E社:193万円
管理会社の三葉が勧めるのは、最高値なのだ。
またまた滝井さんが吠える。
「あのね~。こういうのは、安ければ内容がそれなりなの! 安いからイイってことじゃないの!」
私が反論するまえに、3人ぐらいがツッコミを入れた。
「同じ条件です」「同じ条件って」「同じ条件・・・」
「あ、そうなの? え?! それでこんなに違うの?」
だから、管理会社の言いなりにはなれないんだよ、とかなり言いたい。けど堪える。
最大、81万円も違うのだ。
滝井さんが変わった。
「森さん。あかん。こんなに違うなら、安い方にしなぁ!」
「こんなん、安い方にすればいいがや!」
私は気づいた。
この人は、ケチなんだ・・・。
◆無保険期間
「先ほども言いましたように、無保険期間は危険です」
「万が一その時になにかがあると~」
「これは、管理組合さんが決めることなので。ただ管理会社としては【無保険期間は良くない】と強く意見させていただきます」
そんな、先々の責任逃れの布石しか森さんは口にしない。
「最悪のリスクはなんですか?」と私は質問した。
「例えば、外壁のタイルが剥がれて落ち、歩行者がケガをした、とかですね。最悪、亡くなったとか」
「賠償金ですね」
「はい」
「ん? そんなのが出るのか、この保険は?」
滝井さんの声も、普通のボリュームになっていた。
質問は、相変わらずズレているけど。
結局、無保険期間を生まないように更新することになった。
しかし、解約して、多少の損をしても、その金額を大きく上回るほどの差額があるので、
「臨時総会を開催し、継続か変更かを検討しましょう」ということとなった。
◆総会の決定とは
最後に私は、問題提起をした。
正しくは、森さんを困らせたかったのだ。そしてこのことを、ボイスレコーダーに残したかったのだ。
「はっきりさせましょう。今決まったことは、
定期総会で決定したこと(保険は保留にする)を、この数名の話し合いで【無視する】。そう決めたのです」
「管理会社の森さんに聞きます。
定期総会の決定って、そんなに軽いのですか?」
森さんは、答えに窮した。
やはりというか、滝井さんが、「そんな細かいこと言ったって、しゃあないがや~」と言った。
このくらいで勘弁してやるか、と思ったので、滝井さんの言葉に説得された体で、会を終わらせた。
235万円の、引き出しに必要な書類に、妻が理事長印を押した。
さて、今度は、臨時総会の準備だ。