皆さま
ご訪問ありがとうございます ピンク薔薇


私の兄は
結核性腎臓病と単純な病名で
片付けられ23歳で旅立ちました。


12月1日が
23歳のお誕生日ですから

10月だと
満22歳と言うことでしょう。

兄の膀胱は片方が真っ黒で
もう片方には2つの穴が開いており
生きているのが不思議だったそうです。

医師からは
いつ亡くなっても…と言われ

兄は熱海の国立病院に入院し
私は父方の叔母の家に
幼稚園途中から小学1年生の1学期まで
預けられていました。


親元に引き取られた理由は
叔母が私の入学式やその他の写真を
母に送ったところ
笑顔の私の顔が寂しげに見えて
可哀想に思い電話をしてくれ
「お母さんの所に来る?」と
「行く、行きたい」と成り
和歌山県の港町に転校しました。


後日談ですが
自分の娘(従姉妹)さえ
ばあやに育てさせた叔母が
早起きしてお弁当を作ったり
母を恋しがり夜泣きする私を背負い
夜道を歩き、あやしていたせいか
横取りされたような氣分になり
かなりご立腹だったようです あせる


熱海の国立病院から見放され
退院して自宅静養中の兄と
母と私とで暮らすようになりました。


船長をしていた父は
時々、帰港するのですが
1〜2日間、長くて3日で
航海に出てしまう生活で
まるで、母子家庭のようでした。


兄は小学校も卒業できず
4年生か5年生の途中までで
義務教育さえ満足に受けれず
コンプレックスがあったのか

父や母に
「ピヨは頭が良いから
大学まで行かせてやってくれ」と
常々、言っていたようでした。


両親も私も
当然、そのつもりでいましたけれど
今、その時の兄の氣持ちを思うと
切なくてなりません 汗


「いつ死んでもおかしくは無い」と
医師に宣告を受けていた父は
私には兎も角、甘々で
「生きててさえくれれば良い」と
大切に大切に育ててくれました。


私が学校に行っている間
兄は一体、何をしていたのでしょう…

兄が学校へ行かない事を
何故、疑問に感じなかったのでしょう あせる

きっと、病氣で行けないのだと
わかってはいたのでしょうが…

それにしても 
幼い頃は別として中学生になり
高校生になっても詳しく
兄の病氣を知らされて無かった?

そんな氣がしてなりません。






面白いものです。

私も兄同様
小学5年生で肋骨カリエスに罹患

パスとヒドラを服用し週2回
ストレプトマイシンを打つ生活。

兄と同じ結核性。


そして
兄が亡くなった23歳

私も腎障害・遊走腎


同じ腎臓でも
箇所も病名も違いますが
罹患した年齢がほぼ同じ

血縁なんて無くたって
私たちは兄妹だね〜と
チョッピリ嬉しい…妹・踊り子


そして
今現在の私は膠原病患者
全身性強皮症間質性肺炎
オマケに
腎症にも罹患しています。

科は増え続けるばかり…


実は
まだまだ有るのです。




次回ね ウインク










苦しい

悲しい

寂しい

楽しい

変わるように生きます


今日も無理なく

がんばっぺ


💪








長文
お付き合い下さり
ありがとう
ございました

ドキドキ