今日は父の命日でした。
遺骨は都内の納骨堂に移動していたため、お墓参りにいけました。
5年も経つと、景色がずいぶんと変わります。
父が亡くなった後に起きたものごと、あれは果たしてどういうことだったのか。当時わからなかったことも明確に見えるようになりました。
亡くなった後も、色んな人に褒めていただくことの多い父です。
すごいです。本当に。
自分もそんな風に命を使いたいと、心から思います。
最近は特に真剣に考えるようになりました。
簡単に目的を終えることはできないのだと心の底でわかっているから、いつだって、とにかく早く終わらせたいと思う気持ちばかりが先行するのです。
しかし、じゃあ目的に近づけるような選択をし続けてきたかといえば…胸を張っていのち費やしてきました!とは言えないところもあり…
でも最近は、真剣に考えるようになったからこそ、以前とは違った選択をするようになりました。
「言う」という選択です。
「この選択は、本当に愛であるのか」
勇気。
言う気。
何も言わなきゃ楽できる。時間も精神も奪われない。
何も生まれず、何も結ばれず、何も変わらず・・・
ホメオスタシス。
束の間の安寧。安定。安心。
でも、
「変化しないものなどない」ということだけが唯一変わらないこの世の事実ならば、流れに乗って変化していくことこそ、ありのままの自然のはず。
「この言葉は、本当に愛であるのか」
勇気。
言う気。
「自分のために言っていないか」
「相手のためになっているか」
「周りの人たちのためになっているか」
「利他か」
「公か」
「愛か」
愛で生きる人たちは、
常に、他人ではなく、自分をジャッジし続けている。
愛であることを選択し、
しかしやはりこれは愛じゃなかったのではないかと感じる。
相手のためじゃなかったのではないかと考え直す。
愛だと思って行ったこともまた、この世界では変化してしまう。
そして、そうとわかりつつも、また「これは愛か」と選択する。
愛でなければ削られていく。
愛であれば満たされていく。
そんな感覚を頼りに、日々選択し続ける。
常に進化し続ける。
選択する前も、選択した後も、その次の選択をする時も、その後も…
常に常に、「愛であるのか」のジャッジが続き、その審判の結果が明確にでることはない。
そうして命を使い続け、
使い終わった時にしか、わからないのかもしれません。
ちっちゃなものごとほど、
面倒で。
放り投げたくて。
時間をとられたくなくて。
「これ言っても変わらなくない?」
「諦めちゃえば?」
「相手もその方が楽じゃない?」
「っていうか関わらなければ良くない?」
・・・
愛とはなんでしょう。
上の言葉は愛じゃないんでしょうか。
愛じゃないと言い切れるでしょうか。
では愛でしょうか。どうでしょうか。
私にはわかりません。
観念で愛を語ったところで、何が決定的で絶対的で普遍的な愛かなど、誰にもわからないのです。
言わないことも愛。言うことも愛。
何かすることも愛。何もしないことも愛。
父は、
「言わない愛」を見事に体現していたと感じています。
父の性質を強く受け継いでいる自分も、
言わないことは得意中の得意ですが、最近は「言う愛」の勉強中です。とても下手くそです。
得意なことだけやっていたいところですが…
青は藍より出でて藍より青し。
いつの時代も子は親を越えようと必死なんです。