書きたい書きたいと思いつつ

 

最近全然書けないのは

 

怒りが足りないのかもしれないと思った出来事があった。

 

 

先日、中学生の息子が新しいランニング・シューズが欲しいというので

夕方、近くのスポーツ店に車で買いに出たのだけれど

 

無事に買い物済んで

いざ、お店の駐車場を出ようとした時のこと。

 

 

駐車場の出口が二つあって、

 

一つは駐車スペースの真ん中辺りにあり、

 

もう一つは私が帰りたい方向と同じ方の端にあった。

 

どちらの出口も夕方の通勤ラッシュで塞がっていて、

 

私は少しでも帰り道に近い方の出口を選んで出ようとしたのだ。

 

 

それの何がいけないと言うのだろうか?

 

少しずつしか進まない車の列は

 

待てども待てども、

 

みっちり詰めてゆるゆる進み、

 

一台たりとも道を譲ろうとしない。

 

後方はずっと数珠繋ぎだ。

 

しばらくすると、私がさっき選ばなかった真ん中の出口から出ようとした車に

 

誰かがすぐに道を譲った。

 

その車は私の前を通って行った。

 

私には誰も譲らない。

 

しばらくしてまた、

 

真ん中の出口から出ようとした車に

 

誰かが譲る。

 

またその車も私の前を通りすぎて行った。

 

私には誰も譲らない。

 

 

言いようのない怒りが込み上げる。

 

私はできる限り他人に譲ろうとする。

 

しかし、自分はそうされない。

 

私の太陽は9ハウス天秤座にあり、

 

いつも誰もが平等で公平であることを無意識に望んでいるらしい。

 

自分が他人にするように

 

他人からもされたい

 

またはされる権利がある

 

と、私の中の自我が叫ぶ。

 

それは滅多に感じることのないほどのレベルの

 

怒りだったのだが、

 

また、私の金星は10ハウスにあって

 

これまた、社会的な名誉に対する意識が強いため

 

公の場で軽視されると非常に傷つく

 

らしい。

 

これも結構、この場面での怒りを助長していたのではないかと感じる。

 

 

他人が理不尽な扱いをされるのを見るのも耐えられないので

 

何が正しいのか難しい世の中であっても

 

なーにが正義だよ、偉そうに、と

 

自分で自分のことを思っていても、

 

自分の中での正義感が鬱陶しいほど頭をもたげてくるのを感じることが

 

往々にしてあるのだが、

 

自分のことなら少しは我慢できると思っていたけれど

 

いやいやなかなかどうして。

 

 

 

そして、とうとう車の列が途切れる時が来るまで

 

私は道に出ることができなかったのだ。

 

 

家に辿り着いてからも

 

私の怒りはおさまらず、

 

沸々と湧き上がる怒りは

 

一日の疲れを忘れさせ

 

テキパキと家事をこなさせて、

 

いつもなら一旦座ってゆっくりしてから

 

夕飯の支度に取り掛かるのに

 

その日は

 

あっという間に夕飯が出来上がっていた。笑

 

 

なるほど。

 

私の怒りは私のエネルギーなのか。

 

 

思えば

 

モラハラパートナーと一緒に暮らしていた頃は

 

やたらと書き物がしたくて

 

前のブログにはしょっちゅう色々書いていた。

 

 

あれもきっと、

 

怒りが原動力だったのだ。

 

 

世の中の理不尽に対する怒りを

 

自分のエネルギーに使うとき、

 

 

負けるものか

 

許すものか

 

という反逆的な気持ちが

 

私の中で蠢いている。

 

 

もしも

 

それがなければ

 

私は普段

 

ふわふわぼんやりした人間であるらしく、

 

9ハウスでコンジャンクションする太陽と水星に

 

いつも意識を遠い世界へ連れて行かれがちで、

 

目の前のことをきちんとこなせていないことが多く

 

我が子に叱られることも少なくない。

 

 

だから

 

現実世界の中で

 

私がこんなにも

 

不公平であることや

 

理不尽であることに

 

怒りを感じるのは

 

現実世界を生きるためのエネルギーを

 

授けてくれるためなのかもしれないな

 

と、思った出来事だった。

 

 

 


大学生の姪っ子が剥がしたDISCに描いた…エルモ?