引きこもりを社会から排除しようとする動き(´ω`)? | 仮想通貨や暗号資産、ビットコインに乗っかるニートおじさんのぼやき

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専業生活からクソみてーな損をして再び兼業生活に戻り、また専業に戻り、を繰り返しています。

文春の記事

 

さてこの記事です。

 

うむ、これはしょうがないと考えた人が多いようで、私が好きな橋下弁護士も責めきらんとのコメント出されております。

 

橋下さんのコメント

 

川崎の事件と今回の事件で似てるのは、犯人の特性です。

 

両者とも自分は社会から排除されており、その仕返しをせねばならないと考えていたフシがあるようです。

 

対応が違ったのは、実の父親だった部分が大きい。

 

川崎事件では親子関係じゃない複雑な様子で、今回の事件では実の父親がそうなる前に自分自身の責任として、子を殺めた事件であるように見えます。

 

わしは人間の責任はどこまでの範囲に及ぶのだろうかと考えました。

 

自分を中心としてまず最短距離に居るのは子供と親です。

その先に妻や夫がおり(これを私は実の子と親よりは遠い関係だと考えています)

 

その次に自分の兄弟、更に先に祖母、祖父、義理の祖母、祖父などが続いてゆき、最終的にどこまでが自分が責任を負わねばならぬ縁なのかと考えますと、基本的に未成年の子に対する責任が最も重く、強い責任だと私は考えています。

 

ですから私が最も忌み嫌う人種は、児童虐待する親です。

これはもう動物以下と考えておりますし、これらの犯人である親が、子を殺しても10年程度で刑務所から出てくる、母親の場合は更に割引されて3から5年で出てくるなんてのは、全く馬鹿な話で、これこそ最も重く見られるべき殺人の種類だと考えます。

 

それは置いておいたとしても責任は当然会社に対する輪もあり、友達に対する輪もあり、人間は沢山の輪に所属して社会生活を営んでいます。

 

 

社会生活の責任を無視する人は犯罪者になるし、会社の輪を無視する人はニートになりがちなのは当然そりゃそうです。

 

無視なのか苦手なのかは個人の特性ですが、それらをだいたいなんとか形にハメ込みつつ誰もが生きており、これはもうしょうがない事だとだいたいの人は理解しています。

 

このような物に所属するのがそもそも苦手な人もおられるし、得意な人も居ます。

当然後者のほうが社会生活を有利に勧める事が出来、それらは人生の全ての場面に及ぶ訳です。

 

仮に見た目がすごくブサイクで、身長155センチ、35才、ハゲ、職歴なし、中卒、ギリギリ掛け算九九が出来ない、コミュ障。

 

という属性の人が居たとします。

 

残念ですが、社会はこの人がここから努力したとて何かを得られるように出来ていません。

 

この人が仮にうまく立ち回れるとしたら、それは周りの助けが最高にうまく機能した場合にはそうなるかもしれませんが、そもそも最高にうまく周りが立ち回れたならば、少なくともこの人は中卒でもないし、掛け算九九がガチで出来ないなら障害者認定で働く必要も無いから福祉で助けられて、辛い人生は送らなくて済むはずですし、日本ぐらいの先進国ならばそうであるべきだと考えます。

 

しかし現実はこれらの事件からも判るような状況なので、このような誰もハッピーにならない事が連鎖しているのではないかしら(´ω`)

 

などと今日は考えていたのですが、父は悪くないのは当然です。

 

これは殺された息子が100%に近い数値で悪く、親は自分の今までしてきた功績全てを捨てて、刑務所にぶち込まれてでも親としての社会に対する責任を取った行為だろうと。

 

父親が今まで社会にしてきた沢山のよい仕事がメチャクチャあったであろうけれども、それらをも凌駕する最も重く、最も重要な社会に対する仕事だったのではないか。

 

と、私は思うに至りました。

言うまでもなく、この父親は超絶優秀でそれは嘘でもなんでもなく、事実優秀な人だったし今も立派です。

 

その証拠に彼は顔を伏せて逮捕されておらず、自分が成した事が法的に許されないのは理解した上で、自分という人間が社会に対する責任としてこれをなさねばならないからそれを選んだ。

 

という気持ちを感じます。

 

当然、現行法では起訴するしかないですが、これは絶対に実刑になるべきでもないし、裁判所は弾力的に法解釈を時代に即した形に変化させる必要があると考えます。

 

これは親にしか判断出来ない事であり、その他の人間は何も言うべきでないかもしれません。

父親は優秀ですから、人生のいろいろな場面において常に冷静かつ正しく対応してきたはずです。

 

これまでの人生においてその正しさを連続してきたから重責を担う立場になったのであって、その事実は揺らぎません。

 

では実の子供を、殺すしか無いという判断をそのような人間がせざるを得なくなるに至る過程で、何故福祉は動けなかったのか。

 

どうしたら良かったのか、どうすべきでなかったのか。

それらを考えて決めて、実行する事が仮に道義的に許される者が居るならば、それは親しかおりません。

 

同様に子は親に対してそのような責任を持つと私は考えます。

ですから私が人生において最も重い責任を負っているのは間違いなく娘であって、その次が母親です。

 

仮に母親がダメだと私が判断したら、車と免許を取り上げるのが私の社会的責任です。

 

同様に娘が誰かを殺すに至ると確信を得て、それを止めるために娘を殺すという決断しか残されていない状況で、もはや娘をこの世に存在させてはならないと決めるなら、それををするのも私の社会的責任だと考えねばなりません。

 

それは先程書いたように、私が最も忌み嫌う児童虐待死の犯人に私がなるという決断ですから、恐らく私はその後生きていくことは出来ないと考えていますが、どなたかの子供を自分の子が殺すぐらいならば、私がそれを止める責任があると、私は考えています。

 

現実的には、男子が生まれたとしたならばもっと父親に対して強く共感出来たと思いますが、女子なのでむしろ何らかの犯罪行為に巻き込まれないように守る気持ちが100%で、私の娘が誰かに危害を加えるという心配は、今の所1%もしていません。

 

ですから、理解できないのですが、彼の親としての責任に対する姿勢は理解出来るのです。

 

これらを踏まえて、では引きこもりに対して、社会から排除していくみたいな話をするのはもう馬鹿の極みであって、排除の論理でこの問題を解決しようとするならばこれは悪くなるばかりでしょう。

 

そもそも何故そうなったのかは教育制度から始まる根本的な問題だろうと思いますし、そのような案件は解決に掛かる時間も一世代では不可能でしょう。

 

恐らく私達世代がしっかりと考え始めてそれらが法制化され、それが実体に即した形になるまでには数十年が掛かるわけで、うちの娘が無事大きくなって子供が生まれてその子たちが教育を受けるときに反映されていれば良いなと言うぐらいに時間がかかると思います。

 

ですから、その頃に今言われる引きこもりたちは80才を超え、もはや誰かを殺める体力も無く、恐らく孤独だからそもそも80まで生きる事すらもほぼ不可能でしょう。

 

人間が最も寿命を縮める要因は、タバコでもお酒でもなく、孤独だそうです。

孤独と精神的な病の関係

 

これは統計的に数値化されたものではありますが、孤独ゆえに食生活やお酒の量が乱れる事から体調を崩しやすく、それらが重なりそのようになっています。

 

ですから、強者か弱者かで言うと、明らかな弱者です。

だと仮定するなら叩いてもしょうがないのは間違いない事実で、これは川崎の事件にも同じことが言えます。

 

叩いた所で事件は減らず、むしろ増えてしまうような気がします。

無論、殺された方に対しては無念でしかないし、これはもうテロにあってしまった不幸と考えるのが当然で、川崎事件とこちらは全く違う事ですが、密接に繋がっているように見えます。

 

 

全ての事柄には因果があり、なぜそうなったのかについて根本の部分を見ていかない事にはどうしようもなく、これは引きこもりが悪いのではなくそれが誕生する背景を見ていかなければ何ら解決しません。

 

ですから、引きこもり支援なんて事はハッキリ言うなら余計なお世話で、別に頭のシステムとしては普通の健常者なのだから、当事者たちは腹立たしい事はあったとてありがたいと感じる人は皆無に近い事でしょう。

 

支援と言うなら支援しなければならず、支援とは説教ではありません。

 

まず社会はそれらの事柄が本人たちの責任でそうなっただけではないことを理解して、相手サイドの話を聞いて、ただ聞く必要があるように思います。

 

聞いたあとに説教するからウザいわけで、それが上からなのです。

だから卑屈になり、理解を得られず、ますます孤独になり、いずれ衰え、その衰えに耐えきれず暴走してしまう。

 

まず彼らを助けるのか助けないのか。

このあたりを決め打ちしていくしかないのに、ゴニョゴニョやっとるから何ら意味のない殺人犯と殺された人を誕生させてしまっている事に気づいて、意識を少しづつ違う場所にフォーカスしていく事が、ネクスト子育て世代に対する責任でもあり、彼らが助かるんじゃないのかしらねと思います(´ω`)

 

さて、本日もお疲れ様でした。

明日やーすみー( ̄ー ̄)ニヤリ