さて、まもなくうちの娘は6才です。
どうにかやりくりつけて幼稚園に頑張って通っておりますが、まぁ一人娘ですから、激甘のケーキを食べながらお汁粉を飲むぐらいの甘さ。
で、僕はこの甘さについて強く思っていることがあるのでそれを書いておきたい。
私は3人兄弟の真ん中で、普通のサラリーマン家庭に育ちましたが、祖父が多少裕福でした。
しかし裕福だったのは曽祖父で、祖父はただのスケベオヤジでしかなく、オヤジの財産を食いつぶしてゲームオーバーした人だったのですが、その関係で小さい頃に突如貧乏になりました。
貧乏というか、中の上だったのが中の下ぐらいに下がりました。
それに伴い、欲しいおもちゃを買うとかそういう事はお誕生日ぐらいで、基本的に親もモチベーション高いタイプでもないし、普通の人です。
でそこから生まれ育つ私が優秀であるはずもなく、勉強嫌い(する意味が解らなかった)の普通のクソガキでありました。
さて、娘を育てるにあたって、私は基本的に欲しがるものは全て与えています。
欲望のコップを満たす事で、どのように人は育つのだろうか。
それは悪いことなのだろうかと考えた場合にひとまず与えない事には始まりません。
だもんで、2才3才4才ぐらいまでは週に1度はイオンだのでメルちゃんとかウーモちゃんとかピカチュウぬいぐるみ等々、ともかく欲しいなぁと言い出したものは全て与えました(今も続いています)
子供ですから全て与えてもせいぜい1万円(月)ぐらい
もちろん意味もなく与えているわけではなく、彼女には自分に与えられている個人スペースがありますが、そこがおもちゃだらけになっていきます。
そうしますと遊びづらくなったり、邪魔くさくなりますが、片付けをする事が生活のクオリティをあげることは何歳であっても同じで、私も面倒くさがりですが、自分のスペースを整えておくこと、自分が触りたいときにすぐに触れる場所にあるべきものがあることということを大切にしていますし、それを教えています。
で、面白いことに最近娘は非常に厳選しておもちゃを選んでおり、必要のないものは欲しがりません。
自分がどれぐらい食べたいか、どれぐらい遊びたいかを自分で考えて答えに到れるようになったのかなと考えています。
お菓子だの食べ物も全く同じで、だいたい毎日コンビニに行くのですが、これを買ってはいけないこれはダメなどは一切言いませんし、食べたいもので食べられる量を選んでねとだけ言います。
そうしますと最近はチュッパチャップス1本と小さいグミ一つとかそういうふうになりました。
糖分は脳の成長に大変重要なモノですし、甘い物がダメかどうか砂糖には確かに中毒性がありますが、そんなん言うたら全部中毒性ありますから、教育方針等々沢山あるとは思うのですが、私はまず世界にある全てはあなたの思ったとおりに手に入るし、満足行く結果は自然と与えれるので欲張らずに足りるぶんだけ厳選してチョイスしておけば良いんやで、という事を教えたいのです。
で、そうしますと晩ごはんが食べられない等々の話になるわけですが、私は「作ってくれた人ががっかりするから、少しは食べてあげないといけないよね、じゃすこーしお腹の余裕残しておやつ食べようぜ」
みたいな言い方をします。
大人たちは好きなものを食し、好きなものを飲むのに子供にそれをさせないのはなぜかと言えば、欲求をコントロール出来ないから管理してあげなければならないという論調を見ます。
本当にそうでしょうか。
うちの娘は好き嫌いがめちゃくちゃ多くて、肉がだいたい嫌いですが唐揚げだけ好きです。
魚は大好きで納豆とかも好きですが、サラダが嫌いです。
ですから、うちでは生野菜を娘に出しませんが、給食のサラダは頑張って食べているようです(強要されてはない)
5才の子供が作ってくれた人の気持ちを考えて、がまんしてサラダ食べてるのに、家で更に食べさせる必要があるかと考えますと、私の感覚ではNOです。
ゴリラは草食ですが、ムキムキなのは体内にそれを変換できる機能がついてるからです。
菜食主義が良いなんて全く思わないし、ありゃ宗教だろうと思うのですが、子供は食わねばならぬみたいなのは、戦後の名残ちゃうんかなと思うわけです。
彼女の舌で野菜がどのように感じるのかを私は知ることができません。
それを健康的だからと我慢して食べさせる事の精神的不健康さと強要される不愉快さを割り引いてでも家でサラダ食べる必要があるのか。
ウシでもヤギでもねーんだから大丈夫やろってのが私の気持ちです。
ちなみに食べ物を残すことは極力避けてほしいですが、そもそも私も少食なのでだいたい食べ物屋さんで完食しません。
ですから、おなか一杯だなと思ったら当たり前に残しますし、それでいいと思うのです。
カネは払ってるとかそういう事じゃありません。
もったいないの精神シカトでもないです。
昔ダウンタウンの松本さんが言ってたのですが、「アフリカ人の子供かて、腹いっぱいなら残すわ」というセリフが今も残っています。
自分が食べたい量を出してくれる食べ物屋さんでは残しませんが、定量で出されたらまず残す。
だもんで、娘に対しても食べられる量はひとそれぞれで、体調もあるし、満腹ばっかりだと頭が働かないから(これは事実そうです)ほどほどでええんや、残してええんやでー。
という風にずっと接しています。
そうしますとなぜか不思議と完食するのです。
でも残す日もあるし、そんなことで良いとか悪いとか思わないし、子供ってのは5才でもう立派に思考が成立しており、自我を確立しています。
一言でいうとこういう事。
相手を思いやり、足るを知り、自分には無限の可能性があり、自分が望み努力を厭わないのならば、あなたは何にでもなれる。
私が娘に伝えたい事はたったこれだけです。
これに必要なオプションを、彼女が思いついた事を、継ぎ足し継ぎ足し秘伝のタレのように人生の味を付けていって欲しいなと思うのです。
子供とは何か、と考えた場合にこれはもう自分の鏡です。
子供は私やヨメさんの思考パターンを超える思考ベースを作ることが難しく、それが世界における貧困の連鎖の根源にあるように思います。
貧乏の子がまた貧乏になる最大の原因は教育であると思いますが、その前に貧乏思考があるはずです。
貧乏な親が自分の人生を否定したくないがゆえに、子供に自分が考えた自分なりの貧乏にならないような教育をしたいと考え、最大限努力して様々な事象を押し付けた結果、また貧乏な大人が生まれてしまう。
子は環境を選べぬ植物のようなものです。
大人になれば、嫌なら逃げ出すことも出来るし自分で突破する事が出来ます。
しかし子供はその場から逃げ出すことも自力で稼ぐことも出来ないわけで、言うなら親という植木鉢から出てこれない植物です。
であると考えた場合に、この植木鉢のサイズ感が肝要であることは言うまでもありません。
10センチの高さで300ミリリットルぐらいしか土が入らない植木鉢では大木は育ちません。
もしも自分が50センチぐらいの植木鉢だとしたならば、子供には1メートルサイズのドローンタイプの巨大植木鉢になってほしい(イメージとしては天空の城ラピュタ)
ですので私は、自分の植木鉢サイズをあげることと、子供を自分の植木鉢サイズにしないこと。
彼女には彼女が作りたいサイズの植木鉢を与えてあげること。
これが出来るのは私と妻だけで世界の誰も代わりにしてはくれないし、彼女の世界は今まさに基礎土台でありベース部分を作成していること。
このあたりを大切に思い、愛を持って接するようにしています。
若い成功者たちを見ていくと、彼らと私は何が違ったのだろうかと良く考えているのですが、やはり共通点があります。
彼らは人を思いやる事を知っていて、自分の信念を持っており、自分にはそれを達成する能力があると信じていました。
それらを植え付けてくれた彼らのご家族がおられたはずで、そうした彼らは決して驕ることなく、謙虚で、関わる人の幸せを思い、自分の時間を与えてくれます。
このループを広げていくと、経済的成功も肝要ではありますが、これらの人達の思考をトレースしコピーしていくこと。
逆に言うならばこれらの思考をトレース出来ずに表面的な事を真似ても無駄だと考えます。
まず思考がある。
次に行動があり、最後に結果がある。
その結果、次の思考と行動が生まれ、次の結果。
これを無限に連続していくのが人生ではないのかしら。
と言う結論に達しました。
であるとしますと、育った環境がどこであれ、今の植木鉢がどのサイズであれ、そのようなラピュタ城みたいな人々の思考を真似る事でそれが徐々に染み込んで行き、その栄養が枝葉に届き、気づいたときには植木鉢からフワフワと浮き上がりどこまでも登っていける。
人生を楽しんでおり、人に良い影響を与え、良い影響のループがエンドレスに続く。
これこそが本当の成功者であると私は思いますし、娘にもそのような人生を送ってほしいと思うし、私もそうありたいと考えます。